ヒジカタは行商用の重い薬籠を背負い、あちこちの道場や店先を歩いてみたが薬の売れ行きは良くない。
 雨降りも手伝って余計に売れにくく、背負った薬籠と気が肩にのし掛かってくる。

 今のヒジカタは虫の居所が悪い。

 役者顔に雨を受け、眉間の皺がひどく目立つ。苦虫を一気に噛み潰した顔では余計に薬も売れそうにない。愛想笑いをするのにも頬がひきつりそうな程だ。
 そんな時、目に見覚えのある後ろ姿が映った。
 番傘を真っ直ぐさしかけている長身の男。
 最近、コンドーの道場に顔を出している確かヤマグチ‥‥
 挨拶程度、大して口を聞いた事がないのでヒジカタの記憶の中では、この程度しか思い出せない。
 少しばかり頭をひねる。
「そういやぁ‥‥ヘイスケが‥‥」
 同年ぐらいのトウドウが言うには恐ろしく剣の立つ男。あちこちの剣術を取り入れすぎて本人すら流派を分かっていないと言っていた。
 ソウジやコンドーの相手もしているところから、その腕は確かな事には違いない。道場で垣間見た剣は流行の華やかなものではなく、着実に相手を仕留める地味だが鋭いものだった。
 それを扱う人間も同様に地味で無口・無表情な男、ほとんど印象に残っていない。

 季節は梅雨。
 昨晩から続く雨で濡れた道や葉からは生の匂いが立ちこめている。
 藍染めの薄い着物を纏い、長い黒髪をきっちり上の方で結い上げるその姿は背の高さも手伝ってか余計に目に留まる。
 ヤマグチは垣根の前で立ち止まり何かを眺めている。
「っち‥‥何してやがる‥‥」
 一軒先で立ち止まられ、仕方なしにヒジカタも立ち止まる。
 素通りしてもよいが、気付かれて話しかけられても返答のしようがない。
 何を話していいのかわからないで気まずくなる。
 ソワソワと落ち着かない気分でヤマグチの横顔を見ていると、何で立ち止まったのかが分かった。
 花だ。
 垣根に咲き乱れる白い、やや大振りな花を眺めている。
 何とも似つかわしくない姿だが、花を見てわずかながら微笑んでいる。無骨そうな男と思ったが  あんな顔で笑えるのか‥‥。
 ヒジカタは固かった頬を緩めて近づいていく。
「おい、その花が欲しいのか?」
初めてまともに声をかけた。
「‥‥ぬ? これはヒジカタさん」
 ヤマグチはヒジカタを憶えていたらしい。俯き困ったような低い声。
「女にでもやるのか?」
「‥‥女などおりません。ただ綺麗だから見ていただけで」
 予想通り後が続かない。
 途切れる。
 会話を続けるために一部始終を見ていたなんていったら、この男はなお気を悪くするだろうとヒジカタは思った。
 男が花を嬉しそうに愛でている顔を知り合いに目撃されるなんて気分の良いモノではない。
「なんだ、つまらん男だな。見ているだけとは、女にもそうなんだろ?」
「めんどくさいので」
 目の前にいる青年は立ち去る事もしないで居心地悪そうにぽつりと呟き、その後は黙して立っている。
変わっているな、なんてそう思いながらも自然に自分の名を口に出したことにヒジカタは少しだけ親しみをおぼえる。

「ふ〜ん‥‥なら‥‥」
 手を出し花を枝を握った。とたんに指先に痛みが走る。
「痛てっ? なんだこの花ぁ、茎に棘がありやがる」
「知らぬで手折ろうと? これは薔薇でござるよ」
 咄嗟に引っ込めた手を、ヤマグチはそっと取り手を開かせる。ひとさし指の腹に棘が刺さったままになっていた。
 大きな刀ダコだらけの手が絞り出すように棘を抜き、手早く懐から出した手拭いで強く押さえる。
「おい、手拭いが汚れちまうぞ」
「血を止める方が大切」
 素っ気のない言い方だが、手当をするその手は優しくヒジカタの指を握っている。
「このまま暫くはそうしてください」
「ん‥‥わかった」
 思う以上に深く棘が刺さっていたらしく、どうも血が止まりにくい。手拭いの端を裂いて、指にきつく巻く手は処置にとても良く馴れていた。

 ぽきっ
 今度は棘に気を付け枝を手折る。ヤマグチの目の前に差し出した。
「ほら、手当の礼だ」
「礼って‥‥それは他人の垣根の間から顔を出した花が?」
「気にするな、花泥棒は罪がないと言うからな」
「‥‥っぷ‥‥そうなのか。うん、そうだな。ありがとう」
 差し出された一輪の白い薔薇の花。藍色の着物の胸前に握られたその花の色は一層映えて見える。
 無表情の顔が気の抜けた顔になり、ふわりと笑みが零れた。
 一重の目が、なお細められ口元が優しく綻ぶ。
 少し照れたように頬がかすかに染まり、まるでその手に持つ花の表情のようだ。
 ‥‥胸の中を鷲掴みにされた気がする。見てはいけないモノを見た。脳にそう過ぎった。
 普段のヤマグチに似つかわしくないその笑顔は、あまりにも魅力がありすぎた。
 一撃。
 ヒジカタの胸に杭を深く打ち込まれた。

『俺、何考えてンだ‥‥よ』

 胸の内をぎゅっと掴まれるような感覚や甘い疼きで一杯になる。その感覚がなにと分からない程、子供ではない。女相手に荒行を積んできたヒジカタはすぐさま感情を理解した。

 恋ってヤツか?
 男に? 女との戯れにも飽きてきた処といっても男相手の片恋なんて。
 片恋をしていると言えばコンドーへの想い。 しかしそれは友情に近い。もう六年になる。
 彼と共に国を守り、武士への憧れを分かち合っている。そんな想いを抱くコンドーのとはあきらかに違う。
 初めて女に恋をしたような甘美な疼き。
 
そんな想いを雨音の響く中、目の前で微笑む青年に憶えていた。

時雨