昼間の暑さが嘘のように熱の棘は抜かれ時折、思い出したように吹く爽やかな風が萩を揺らす。
 さわさわ‥‥
 靡く草花の間から虫達が鳴き、風の奏でと混じり合う。
 夜の庭は夏から秋へと装いを変えていた。

『よい月が出た』

 見上げれば、薄墨を流した空に月だけが一つ浮いている。星の瞬きはない。
 満月に近いが、どこか躊躇いがちな月。わずかに裾が欠けている。
 サイトーは銚子と猪口を手に縁側に坐り、柱に背をもたせかけ、そんな月を眺めて一人酒。
 ちびり、ちびりと猪口の酒を顔を覆う布の下の唇へ含ませていく。
 麻の単衣では少し肌寒い。羽織を持ってこようと思ったが、止めた。酒で暖をとりながら季節の流れを目を閉じ感じてみるのも悪くない。
 やさしい鈴虫の音に、珍しく感傷的になっている自分に笑いがこみ上げる。隠そうと小さく息をついた。
 昔のサイトーでは考えられないほどだ。
 もう一献、杯を傾ける。
 口の中に流れる凛とした味の酒は酔うほどに甘く感じられ、うつらと夢心地になりだす。

「サイトー君、そんなところで寝てしまっては風邪を召しますよ」
「あぁ? イノウエさん」
 揺すられ、ゆっくり瞼を開ければ、微笑むイノウエの顔が広がった。目尻の皺を深く刻んだ満面の笑顔だ。
 普段から、優しく声を荒げることの少ない年嵩の増した男は、美形とは言い難いが、人好きする顔をしている。
 ゴツゴツと節だった手の中に掛けようとしたらしい羽織が一枚、収まっていた。
 サイトーは、ちらりと見て彼のこの次、起こす行動を悟る、手を翳し無言で羽織を拒否した。あまりにも素っ気ない、というよりも悪意にも取れる手の動きにも怒らず、持っていた布を軽く畳んだ。
 目覚ましの一杯とばかりに前に置いた膳の杯を酒で満たし、覆面の下に差し入れる。
「もぅ酔っぱらってしまったのか? そんなことはあるめえよ。お前えが」
 奥の間から大きな笑い声と共に、餡のたんまりと入った饅頭を美味そうに頬張るコンドー局長の姿があった。拳骨一つが丸々入るその大口は、いつ見ても迫力だ。
 酒より甘い物の方を好むのは意外性の他ない。隊務の時のように気張った顔はなく馴染みの荒いエド弁がでている。心より落ち着きくつろいでいるようだ。
 コンドーの相手をするように賑やかなハラダが前へ坐り、酒を煽っては豪快に笑い飛ばしている。 普段から行動に品がなく短気な性格だが、人一倍、情が深く太く凛々しい眉を持つ、なかなかの男前だ。品が無くとも愛嬌たっぷりの彼なら、それで良かった。
「色恋のきったはったよか、俺の腹傷話の方が数段楽しいやい。よぅ、これだよ」
 コンドーとくだらない駄洒落を言い合っていたが、段々と品がなくなり自慢の切腹傷を見せだした。饅頭を頬張るコンドーの口の端が、微妙な引きつり笑いをサイトーは見逃さなかった。彼でもそんな顔をするんだと布の下からふっと笑いが漏れる。
 サイトーは軽口や自慢話はしない。言うのも聞くのも得意ではないのだ。どうにも虫酸が走る。
『そんな自惚話。誰が聞きたいモノか』
 飲ませすぎたコンドーがいけない。助けを求め泳ぐ視線に気付いたが、サイトーは鼻であしらい、見て見ぬふりを決め込む。
 いつものハラダの講釈を笑って聞いているのはイノウエだけ。コンドーの視線など気になっていない。いつまで経っても人の良さだけは、変わらなかった。
「あ〜もぅ、その話しは百辺、聞きましたよ〜! ねぇ、ヘイスケ」
「あぁ、俺なんか百五十は聞いてるから、ほんと飽き飽きさ」
 庭で蛍を追いかけていたオキタが笑いながら、ようやくコンドーに助け船をだした。その言葉にサイトーとの間に距離を置いて坐っていたトウドウが返す。
 どっと大きな笑いが起きる。
「うるせいっ俺は話してぇんだよ」
 と言いっていても真っ赤になり、恥ずかしそうに首の後ろを掻く。
「んもぅ、死に損ないの話が過ぎるとヒジカタさんの俳句自慢が始まりますからこの辺でお仕舞いにしましょ」
 オキタは戯けた顔で、よいしょと庭から座敷へ上がり込むとハラダにまとわりついた。まるで兄に甘える弟のようだ。
 どこまで歳を重ねても末っ子のように甘えて、無邪気に微笑む。
「見て驚けよ! 腹一文字の傷、俺ぁの腹は金物の味を知ってんだ!」
 ヘイスケが大きな声を上げ、手にした団扇を刀に見立てハラダの真似をする。
 また大きな笑いの波が起こった。
 彼は国王の御落胤と噂される男だ。色の白い瓜実顔に、大きな瞳、鼻筋の通ったどこか品がある面立ちをしている。噂はまんざら嘘ではなさそうに思えた。
 小振りな体躯ではあるが、働きは浪士随一。黒目がちな瞳を楽しそうに細め笑っている。
「こら、お前ぇら、ちったぁ静かに月見ができねぇのか」
「よっ副長! 月の明かりに照らされる、その顔は美人だねぇ。さしずめ月下美人ってぇ、とこか?」
 発句帳を片手にしたヒジカタが、怒鳴り声と共に庭の隅から現れると、つかさず、ハラダのヤジが飛ぶ。
 ヒジカタの顔はハラダの言う通り花がある。豊かな焦げ茶色の髪を後ろに撫でつけ、弓なりの眉の下に涼しげな琥珀の眼が煌めく。鼻梁は細く高い。 月の光が白い頬に沿えば、一夜だけ咲く清らかな花弁のように甘い匂いを発するように思えた。
 狼士隊の鬼副長。
 ヒジカタをそう呼ぶモノは少なくない。町人は想像で、獅子か熊のような男を思うだろう。しかし見るのと聞くのは大違いだ。花を思わす程の伊達男っぷり。だが発する言葉は、荒々しい東言葉。そんな彼の唯一の趣味である発句と、繊細な趣味の持ち主なのだ。
 だが彼の詠む句は、表現が感想文に近く、あまり褒めたものではない。
 悪戯にオキタが大きな声で詠んでいたのを聞いたサイトーは、吹き出すほど酷いものだと思っている。
 彼自身あまり表立って公開しているわけではない趣味を、人気の多い場所で俳句を捻るとは、よほど月が綺麗なんだろう。サイトーはヒジカタを見やり、そして空に眼を向けた。
『あな、綺麗な月だ』
 和気藹々と賑やかに過ごす仲間の顔は隊務に就いている時に迸らす緊張や殺気は無い。穏やかな表情の歳相応の青年達の集まりのようだ。
 視線を巡らせ、足りない仲間がいることに気付いた。
 ナガクラがいない。このような席にはハラダ同様に率先して参加をしている彼の姿が見えなかった。
「ナガクラさんは?」
「パッさんは最近、貰った恋女房んとこだよ。野暮なこと聞くな、サイトー」
 ハラダが太い腕を後ろから回し、いやらしく、にやけながら目の前小指を器用に振ってみせる。
 そういったモノにサイトーは疎い。
 覆面で隠れていても怪訝な表情すると、近づいたオキタが笑いながら、
「厭だなぁ、ハラダさんっホント下品ですよ」
 ハラダ突き立てた小指をオキタは刀ダコでゴツゴツした手で覆った。
 カラカラ‥‥カラカラ、よく笑うものだとサイトーはいつも思っていた。
 自分と同じ年、否、二つも上だとは思えないほど子供っぽい。
「謹慎が解けたとたんに女房のところとは、パッさんもつれないなぁ、男同士の友情も大切にいないとな」
「友情というより、あんた達は腐れ縁だろう」
 ハラダがよよっと泣き真似をして戯けてみせる。この二人はいつも一緒にいることが多い。昔からそうだった。
 サイトーは肩に乗せられている太い腕を払い退け、猪口に手を伸ばした。
「さて、明日も早い。朝一番から国王様の護衛たぁ、何かあること間違いねぇな」
「そうですね〜」
「サイトー達が行くのか?」
 ハラダに言われ、もちろんと頷こうとしたサイトーにヒジカタが、
「いや、今回は他の隊だ。ヘイスケの所に任せる。サイトー、お前ぇは駄目だ」
「‥‥」
「今回、三番隊が留守役だ」
「そうだ。いつも出ずっぱりだからな、たまには俺たち八番隊にも花をくれよ」
 トウドウが可愛らしいく口を尖らせた。刀を握った時の魁先生と呼ばれる猛進型の彼とは全くの別人のようだ。
「よぅ、十番隊はどうすりゃいい? この前のヘマを挽回してぇなぁ。今度こそ出させておくれよ」
「わかった、わかった。ヘイスケ達と行ってこい。一番隊は西の見回りだ」
 前回のヘマをまだ引きずっていたハラダの訴えにヒジカタはやや投げやりに言う。
 的確に明日の指示を出すヒジカタを見上げ、明日は留守役か‥‥つまらんとばかりに杯を傾けた。
 ヒジカタも、面白く無さそうにしているサイトーを分かっている。だが、彼ばかりを働かすわけにはいかないのだ。
 「そんな眼をするもんじゃねぇ。屯所守衛だって立派なお役目だぜ。明後日はお前らを出してやる」
「そうしてくれ、暇があると酒代が嵩んで仕方ない」
 一つ悪態をついてから、杯の酒をと飲み干した。流し込む酒はどこまでも甘く感じる。酔えば酔うほど甘い。
 やや膨れ気味のサイトーを推測したヒジカタは、小さな笑みを浮かべ、あぁ、約束だと言った。
 ヒジカタはきちんと約束を守る男だ。サイトーはふんっと鼻を鳴らし、明日の留守役の承知の合図をした。
 そろそろ限界量以上の酒が入っているらしい。少しばかり身体が怠くなっている。
 あぁ酔っぱらったのだな、とサイトーは感じた。瞼がゆっくりと閉じていく。
 皆の楽しげな会話が遠くに聞こえ出す。ずっと遠くに。だんだんと聞き取り辛い。
 イノウエさんが、また上掛けの心配をしている。ハラダのくだらない自慢話に、ソウシとヘイスケのふざけ声、カラカラ、カラカラよく笑う‥‥
 重い瞼の所為でコンドーの饅頭を食べる大口が、ヒジカタの俳句を詠む横顔が歪む。
 声が水の中から聞いているように淀む。瞼を開けてられない。
 あぁ‥‥眠い。
 そう思いながら、サイトーは意識を深く落ちていった。

 すぅっと目を開けた。
 月は沈みかけ、徐々に真新しい朝の光が青い闇の中に東から強い光を放っていた。
 虫達は夜明けを感じ静かに休みだす。
 楽しい一時。
 懐かしい顔。
 彼らといた時間は苦痛もあったが、自分というモノを作り出せた。
 醒めないのならそれでも良かった。 心のどこかで醒めたくなかった。
 一緒に逝きたかった。
 だが彼らはそれを望んでいない。
 なら、もう少し生きてみよう。彼らが俺を望むまでここに留まっていよう。
 サイトーは湧くように溢れ出る涙を拭わず覆面に沁みるままに任せていた。

『あいつら、あっちでも戦っておるのだな‥‥副長、出陣の約束はそのうち守って貰おう』


時雨