月蛍(つきほたる)
うち 小鶴いいます。
以前は相生太夫と呼ばれておりましたが、不思議なご縁でお会いした旦那はんに身請けして頂いたんです。
童の時から過ごした花柳界から外に出るのは、ほんまの事言えば少し不安でした。
けれどお母はんにもええご縁やと薦められて、お世話になることにしたんです。
小さいけれど使いやすい家も用意していただいて、ささやかながら小唄の師匠をさせて頂いてます。
最初お会いした頃の旦那はんは、なんや気難しそうで何を考えておいでなのかようわからんお人でした。
口数は少ないし、東言葉で荒い…。
けれど決して無茶や無理は言わないお人でした。
うちのような妓(おんな)には何をしてもよいと思うておいでの男はんはわりと多いんやけど、そんな中でも数少ない心を許せるお人でした。
あちらもうちの何を気に入ったのか、ようお座敷に呼んでいただいて、
たまにやけど笑ってくれはるようになって…。
なんとなくお声がかかる日を、うち自身も指折り数えるようになっていました。
そのうち自然と身請け話が出たようで、うち自身がいくつか年上いうのも気になったんやけど
「俺はかまわぬ。」
というお言葉に甘えさせて貰いました。
丁度一年くらい前の事です、お庭に蛍が飛んでいましたから…。
今日久しぶりに旦那はんがおいでになるそうで、夕餉の支度をしてお待ちしています。
なにやら他にもいいお人がいてはるそうで少し間遠くなった気もしますが、まあそれは男はんの性(さが)でしょうし責めるわけにもいきません。
おいでくださる時くらいくつろいで頂けたらと思うてます。
…噂をしたら…この足音は…。
「帰った。」
「お帰りなさいませ、濯ぎ(すすぎ)をお持ちいたします。」
なんとなくいつもよりお疲れのご様子…。
お体のお加減でも悪いんやろか?
そう思いながらも濯ぎを準備して上がって頂きました。
夕餉の前にお湯をお使いになるというんで、
沸かしておいたお風呂をお使い頂きました。
いつもは顔の痣をお隠しになるために覆面をつけておいでなんやけど、
さすがにここではすぐ外してしまわれました。
最初見た時は驚いた痣でしたが、見慣れるうちになんやそれも愛らしゅう感じるようになって…。
人の心とは不思議なもんですな。
「小鶴…相変わらずだな。簪(かんざし)もつけてないのか?笄(こうがい)だけで。」
うちはなぜか太夫時代にあれほど飾っていた髪飾りを、今はあまり欲しいとは思わんのです。
「もう 髪を飾るものには飽きたのかもしれませんなぁ。」
お酌をしながらうちはそう答えました。
花簪や玉簪はわりと重たいんです。
派手な暮らしは太夫時代に十分させていただきました。
今は自然のままに、季節に逆らわず生きる事が楽しいんです。
着る物も地味だとよく言われます。
でも好きでもない男はんの傍に侍っていたことに比べれば、今はどんなにか幸せです。
「いつの間にこれほどの料理を覚えたのだ?太夫時代には、箸より重いものなど持った事すら無かったろうに。」
「お母はんに教わりました。今でもたまに顔を見せて教えてもろうてます。」
「…そうか…あの女将 なかなか。」
「縁あって集まったうちらのことを、お母はんは『娘や』いうてくれはります。身請けされるのは嫁に出すようなもんやと…。だから恥ずかしくないようにと、いろいろなことを教えてもらいました。」
うちがそう言うと旦那はんはふっと苦笑いを浮かべて…
「…男の扱い方もか。」
「……。」
「まあいい 気を悪くするな。その不思議な目の色が曇る。」
「…はい、別に気を悪くは…。」
「気にするな、おかげで俺は旨い夕餉を食えるわけだ。女将に礼を言わねばな。」
「…今度逢いましたら、伝えておきましょう。 旦那はんのお言葉を…。」
うちの言葉など聞こえなかったように、静かに杯を口になさいます。
今ご執心のお人は、夕餉など作らんのやろか…。
ふとそんな思いが頭をよぎりました。
少しお酒をお付き合いさせていただいて、なんとなく酔いがまわったようです。
いくらか頬が火照ってきました。
「確か…碁を嗜んでいたな?」
思いついたように、そう声をかけられました。
「…はい 石が置ける程度ですが…。」
「そうか…今宵は月が明るい…。縁側で一局どうだ?」
「お相手になれますかどうか…。」
そう答えながらも碁盤と碁石の入った碁笥(ごけ)を、お縁に運びました。
実は太夫時代に嗜みの一つとして、囲碁もいくらか教わっていたのです。
しかしうち自身強いのやら弱いのやら、よう知りません。
「小鶴はいくつか石を置くのか?」
白石の入った碁笥を手に、そうお尋ねでした。
「そうですなぁ…三つ置かせてもろうて、よろしゅうおすか?」
お顔を見ると軽くうなずかれたので、
黒石を三つ置かせていただきました。
旦那はんは手元に杯とお銚子を置いて、飲みながら石を運ばれます。
特に厳しい手をお打ちになるわけや無いけど、やはりこちらの分が悪い。
じりじりと陣地を広げていかれます。でもふっと打ち損ねのような手を、
お打ちになることも少なくありませんでした。
おかげでわずかな差ではありますが、今回の勝負は勝たせていただきました。
「なかなか強いな。」
「旦那はん…手を抜かれましたでしょう?わざと負けはって…。」
「…いや…酔ったのかもしれんな。それより勝った褒美だ。」
そう言って、懐から綺麗な櫛をおだしになりました。
「…これを…うちに…?」
「お前の不思議な瞳の色に似合いそうだったのでな。」
そしてそっと髪に挿してくださいました。
「やっぱり わざと負けはって…。」
「…素直に受け取る気性ではなかろうに。」
うちは旦那はんの顔を見て苦笑しました。
確かに素直さの少ないおなごかもしれません。
「疲れた 膝。」
碁盤や碁笥を端に寄せて、旦那はんは横におなりです。
うちの膝に頭を預けて…。
団扇で軽く風を送りながら、のんびりと月を眺めておりました。
「こうしていると心が落ち着く・・・。やはり小鶴がよい。」
「他所でも同じように、おなごに言うておいでとちがいますか…。」
「ほう‥妬くのか?」
「どうでっしゃろ‥。」
顔を見合わせて互いにくすっと笑いました。
月に照らされた庭では、蛍が美しく舞っておりました。
夏草に 群れ飛ぶ蛍 眺めつつ 時の流れを 暫し忘るる
月蛍 完