ねぇ、その痛みはやっぱりくるしいですか?


其れは、何かを殺めると云う事。
何かの全てを、確実に、この手で終わらせると云う事。
其れは、罪と云う事。
慈悲深い悲壮に浸ろうなどとは、思わない。思えない。
それが、俺が出来るせめてもの償い。
俺は無慈悲にヒトを斬る。彼等を終わらせる。
総てを失った彼等に同情心なんてものをぶつけても、何の意味も無い。

俺は無慈悲にヒトを斬らなければいけない。
そうして屍を踏み台にして目指したものは、何だったか。
時折、分からなくなる。
そして目の前に広がる血の海に、俺は呆然とする。
何を求め、何の為に血を流したろう。

俺が後悔をする事は赦されない。
血だらけの手の平は、無心に洗い落とせばいい。
何も残りはしないと、俺は思っていた。
そして忘れていく。

其れが、罪と云う事。
忘れたかった、唯一つの事実。

「サイトー、また痣が増えたか」

着物の襟からちらりと覗いた、赤黒い紋様。
彼はなにも答えずに、黙って刀を拭った。
こちらにとっても、なにかの答えを期待した問いではない。
研き終えた銀の刀を鞘に戻し、彼は壁に背をもたれた。

俺はぼんやりと考える。
昨夜は何人の人々を斬ったろう?
全てを覚えているわけはなく。
ただ、あまりにもあっけない、人の終わりを思い出す。
人の命は重いというが、それならどうしてあれほど簡単に、人は死んでしまうのだろう。

「あんたは怪我はないのか」

彼の言葉は、明確な問いだ。答えは考えることもなく出る。

「ああ。当たり前だ」
「そうか」

無口な彼との会話は、気負うことがなくて楽だ。
艶やかな黒髪を手櫛で結い直し、彼はまた壁に寄りかかる。
朝陽が差し込む部屋の中、深い陰影をつけた彼の横顔。
そして髪の隙間から覗く痣を。
黙ったままで眺めた。

「……朝飯はどうする」

訊くと、彼は首を横に振った。

「俺は何か食べてくるよ」

空腹感はあまりなかったが、口寂しくて。
立ちあがり、部屋を出た。
昨夜の戦のために借りた古い宿を後にする。

食堂に立ち寄り、握り飯と味噌汁、焼き魚を頼んだ。

「あいよ、お待ちどう」

愛想のいい女が笑顔で机に朝食を起き、忙しそうに去っていく。

この焦げついた魚と同じようなことだと思う。
食うためか、進むためか。その違いだけ。
人は自らのために、多かれ少なかれなんらかの殺生を繰り返している。
いちいち一匹の魚のために涙を流す奴は居ないし、鬱陶しい蝿は迷わず叩くだろう。
当然のこと。
当たり前のこと。

箸をとって、ささやかな朝食を口に運ぶ。
やがて空になった皿の隣に、金を置いて席を立った。

「ご馳走さん」

心地良い風が吹き抜けた。
見上げた空は青く、霞んだ雲が無造作に並んでいる。
良い朝だと思う。
ひやりと冷たい空気は、寝不足の頭を冴え渡らせる。
少し遠回りをして帰ろうと、俺はゆっくり歩を進めた。

「踏んじゃだめ」

小さな呟きが聞こえ、思わず足を止めた。

「なんだ?」

声の主は、狭い道の端に居た。

「踏んじゃだめだよ」

おかっぱ頭の少女。6つぐらいの歳だろうか。

「なにを?」

少女は人差し指で、俺の足元を指差した。

「……花?」

雑草だろう。名前も知らぬ、親指ほどもない小さな花の蕾をつけた草。

「踏んじゃあ、だめ」

繰り返し言う彼女の瞳が、俺を責めている。

「分かった、分かったよ」

未だ蕾のままの花を避けて通る。
なんだと言うんだ、このちっぽけな花が。
少女は花に駆け寄り、地に膝をついた。
着物の裾が汚れることも構わずに、彼女は花だけを見つめた。

「……それほど大切な花なら、高札でも立てておけばいい。
           『この花踏みつけし者は引き回しの上死罪』なんてな」

笑いながら軽口を叩くが、少女は振り向きもしない。
可愛くない子供だと心の中で悪態をついて、俺は背を向けて歩き出した。
角を曲がる時に、一度振り向いた。
少女は相変わらず、花の隣で俯いていた。

「…あまりこんなところに留まっているのは薦めない。暗くなる前に家へ帰れよ」

人通りの無い細道は、夜になれば物騒な奴らが集まる。この村は治安が良いわけでもなかった。
大きめの声を掛けると、少女はこちらをゆっくりと見上げ、僅かに頷いた。


宿に戻ると、サイトーは壁に背をついたままで居眠りをしていた。
俺が立てた物音で目を覚ます。

「疲れているのなら、今の内に眠っておいた方がいいぞ」
「…ああ…」
「布団を敷けばいい。俺も眠る」

押し入れを開け、布団を引き出した。
彼も俺と並んで、畳に布団を敷いた。

寝やすいようにと浴衣に着替える背中。
痣を見ると、胸騒ぎにも似た、わけの分からない想いが胸を駆ける。
これはなんだ。
見慣れたはずの、彼の背中を。
俺は見ていられなくて、視線を落とした。

「チッ、物取りか」

陽が落ち、俺は遅い夕食を買いに出ていた。
その後を確かに追ってくるのは、おそらくいつもの敵ではなく、盗賊の輩だ。
サイトーを連れて来るべきだったと後悔する。
あまりに気持ちが良さそうに眠っているので、起こすのにためらい何も言わずに置いてきてしまった。
俺一人でも勝てないことはないだろうが、敵は少なく見て片手の指ほど。
どうせ戦い慣れた輩達だろうから、なかなか骨が折れる。
振り返るのも面倒で、できることならこのまま走り出して振りきれればいいと思った。

「ちょっと待ちなよ、お兄さん」

目の前に、頭二つ分ほど背の高い男が立ちはだかる。

「…何か用かな。急いでいるんだが」

にこりともせず答えると、大男は気持ちの悪い笑みを返してきた。

「財布を置いて行って貰えるか。そうすればすぐに立ち去って構わねえ」

愛想がいいとは言えない笑顔。剥き出しの薄汚れた歯は飢えるように光っていた。

「残念だが、今買い物に出ていてね。小銭ぐらいならくれてやるが?」

嫌悪感が湧き出して、睨みつけながら笑みを返してやった。

「いい度胸だな兄ちゃん。ならば黙って斬られるんだな」

男は笑みを殺して刀を抜いた。

「フン。あの世で後悔しろよ」

俺も刀を抜く。一瞬で周りを囲まれた。
夜月に照らされ、銀の線をいくつもつけて刀が舞う。
壁際に追い詰められないように立ち回りながら、人を斬った。
鈍い感触に浸ることもなく、次々と。

「やめて!!」

高い声が響き、目の前の男の背後を見る。
昼間の少女が道に座り込んでいた。

「なんだこのチビは」
「踏まないで!!」
「馬鹿野郎、何してやがる!!!」

言ってから気付いた。この道にはあの花がある。
少女の膝元には、小さな桶が転がっている。乾いた地面には水が零れたのだろう黒い染みがついていた。
こんな夜中に花に水をやりに来るなんて、本当に馬鹿野郎だ。

「花を踏まないで!!」
「黙れ、今すぐ帰れ!!」
「なんだ、お前の知り合いか」

少女に歩み寄り、その刀の先を小さな首に掲げて。

「お嬢ちゃんも運がなかったなぁ? こんな男と付き合うからいけねえんだぞ?」

大男は兆発するようにこちらを見やり、ニィと気味悪く笑んだ。

「やめろ!! そいつは関係ねえ!!」

目の前の男を荒く斬り捨て、少女に走り寄ろうとするが、行く手を他の男に阻まれる。
銀が舞う。少女は花を抱えてうずくまる。
やめろ、やめろ、やめろ、

「――――やめてくれ!!!!」

懇願をするなんて。馬鹿な話だ。
俺は人を斬ってきた。今まで何人も。
彼らは崩れる瞬間、俺を見た。
その眼は恐怖に歪み、一様に懇願していたのではないか。

「――――殺さないでくれ!!!!!」

俺は刀を投げ、地に膝をついた。

「…やめて、くれ」

見たくない。何の罪も無い少女が死ぬ姿を。

「随分男前な姿だな?」

大男は片方の眉を上げ、こちらを見下ろした。

「だが俺は、もう3人の仲間を失ったよ」

辺りを見渡し、地に倒れた男達をも見下して。少しも堪えていないような笑い。
仲間?あんな雑魚、ただの手下なんだろう。
悔しさに歯を食い縛った。

「財布はここに置いていく。だからその娘はそのまま帰してやってくれ」
「嫌だと言ったら?」

兆発するように刀をゆらりと揺らし、大男はにやつく。

「頼む……」

頭を下げた瞬間。
ざく、と、鈍い音がして。
顔を上げると、花の隣に倒れた少女の薄い着物には、赤い線が入っていた。
地が濡れる。
今度の染みは赤黒く、深い穴のように見えた。

「残念だったなぁ、土下座するのが遅すぎたぞ」

ヒヒヒと、響く大男の笑み。

あふれ出したのは、憎悪。
そしてそれは間を空けることなく殺意に変わった。

――殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる。

言葉にならない叫びを上げて、俺は立ち上がった。

「刀はどうした侍よ!」

大男は笑ったまま、こちらに斬りかかってきた。
俺の手に刀は無い。
懐から小刀だけを取り出し男の刀を受けるが、振動がもろに腕に来る。これではまともに戦えない。
男は二人になってこちらに刀を向けた。

「畜生っ――…」

退くのは嫌だ、このまま黙って逃げるのは嫌だ。
少女の姿を視界の端に映したまま、俺は壁際に追いやられていった。
脆い小刀は弾かれ、道に転がった。

「人思いに一瞬であの世に送ってやるよ」

男の笑み。
死の覚悟などできはしない。
俺は助かる方法を考えていた。
どうすればいい? どうすれば。

少女は花を守って逝った。
その馬鹿みたいな勇気を、俺は持っていなかった。

突然、男が血を吐いた。その場に倒れ込む。

「なにっ!?」

大男が振り返る。その後ろに、見なれた姿が立っていた。

「サイトー!」

サイトーは一瞬で刀を振り上げ、大男の腹を切り裂いた。
膝を折って倒れた後の大男の姿は、ただの屍だった。
それ以上でも以下でもない、ただの屍…。

「なんだ、こんな男にやられたのか?」

呆れたように涼しい眼でこちらを見やるサイトー。
俺は俯いた。
サイトーは少女の亡骸に気付いていない。
俺は俯いたまま、少女のもとへ歩み寄った。

覚悟していた通り、少女はもう、息をしていなかった。
青い顔を地面に押し付け、閉じられた瞼には、薄い涙が滲んでいた。

「…その娘は…」

問いかけるサイトーの、低い声。
答える声が喉に詰まり、口には出せなかった。

少女の隣で、ちっぽけな花が咲いていた。
さっきまではまだ、蕾だった花。
血に染まり、白い花弁が赤く濡れていた。

赦せない。
『ただの屍』になった男を。
赦せない。
『ただの屍』になった男なのに。
憎悪ばかりが残るだけではないのか。
何の為に人を斬ってきたんだ。


サイトーは俺に何も訊かなかった。
俺に答える声が残っていないと気付いたのだろう。
何も言わず、宿まで隣を歩いてくれた。
サイトーは優しかった。俺に似合わぬ優しさを持っていた。


人を散々斬ってきた俺が、斬られた少女のために泣くなんて出来ない。
同じなのだ。俺はあの薄汚い男と同じ、刀を振って人を斬った。
そしてこれからも、屍を踏みつける男なのだ。
罪など感じてはいけない。

返り血で汚れた着物を脱ぎ、濡らした手拭いで顔を拭いた。
湿った両手を見て愕然とする。
この血は誰のものなのだろう。俺の血でないことは確かだ。
最初に斬り捨てた男か、それとも次に切り捨てた男か、それとも?
顔など覚えていない。名乗り合ったわけでもない。
全身から醜い血の匂いがするようで、吐き気が込み上げる。
いつの間にか俺は、こんなに穢れきっていたのか。

罪など感じてはいけない。
俺は鬼にならなければいけない。
戻る事は出来ない。
人を斬る前の過去に。
戻れない。そして戻りたくはない。
俺の唯一の術なのだ、刀を振る事は。


ふと見ると、サイトーも着替えていた。
いつもと同じようにこちらに背を向け、着物を脱ぐ。

「!」

俺は眼を見張った。サイトーの痣が増えていたからだ。

白い背中の痣は、少しずつ、けれど着実に、サイトーの身を塗っていく。
俺について回り、人を斬る度に。
いくつもの痣は、罪の証。
『俺の為に』『俺のせいで』サイトーは罪に侵されていく。

手を伸ばした。冷たい背中に触れ、痣をなぞる。

「……なんだ」

低くおだやかな声。

「…また、増えたな」

ふっと笑みに肩を揺らすサイトー。

「…気付かなかった」

嘘だと思った。サイトーは優しすぎた。

「お前は」

震える声を振り絞った。

「お前は―――…俺の代わりに、罪を背負っているんだろうか」

罪悪感を感じようとしない、鬼の俺の罪という苦しみを。
優しすぎるサイトーの背中に、思い知った。
どれだけ重い罪を犯して生きて来たか。
赦せない。
自分の穢れた両手を。

なぁ、その背に背負った重さは――痛みは――苦しいか?

サイトーは何も答えず、天井を見上げた。

「…花が、咲いたんだ。あの子が死ぬ前は、蕾だった」

頬を伝う涙を気付かれたくなくて、サイトーが振り返らないようにと祈りながら言った。

「俺は何の為に人を斬って来たのか、時々分からなくなる」

サイトーは黙って、俺の話を聞いている。

「………出来る事なら、俺は―――ちっぽけな花を咲かせるために、生きて行きたい――」

サイトーは振り返りはしなかったし、俺の言葉に返事をすることもなかった。
彼の優しさは、俺を責めてはいなかった。
だから尚更俺は、追い詰められているように思えた。
責めてくれればいい。そうすれば幾らか後悔できる。
しかし、その役を身勝手に、この男に押し付けはできないだろう。

戻れはしない。
進んで行くしか無い。
幾つもの重い扉を開いて。

「サイトー、聞いてくれよ。約束したんだ。あの子の亡骸に」
「なにを?」
「花を咲かせようと」
「花?」
「どんなに過ちを繰り返しても、俺は進むしかない」
「ああ」
「俺は俺を赦せない。そして赦せない奴らを斬っていく」
「ああ」
「赦せないんだ。でも、進まなければ花は咲くまいよ」
「……ああ」

愛想の無い受け答えだと、俺は悪態をつく。

「花が、咲くといい」

片手で自らの肩を抱え、サイトーは言った。

ちっぽけな花が、この歩む道の向こうに在るだろうか。
血濡れた花を、俺は赦す事が出来るだろうか。

それでも。
俺は進むしか無い。
この優しくも哀しい、男を引き連れて。
そしてまた、尋ねるのだろう。
なぁ、その痛みはやはり、くるしいか?
そしてあいつは、痛みを感じられない俺の為、痣を増やして行くのだろう。

あいつの優しさは俺を追い詰める。
あの少女の強さは俺を追い詰める。
進む道しか無いのだから。
俺は行く。
この哀しくも優しい、男を引き連れて。


ねぇ、その痛みはやっぱりくるしいですか?
宝物