ぱしゃり‥‥
ぽたり‥‥
重い雲に覆われた空から落ちる雨は、庭に咲く青い紫陽花の花を濡らし、そこかしこに協和のない音を立てていく。
ぱしゃり‥‥
ぽたり‥‥
昨晩から振りだし、昼前の今も止みそうにない。
「はぁ〜、よく振るでやんすねぇ」
敷きっぱなしの布団の上。だらりと身体を伸ばし気怠そうに頬杖をついて、軒先からつたい落ちる雫の一粒一粒を彼は橙色の瞳で追っている。
土に沁みるのを見届けると、また次の水滴へと目を移す。
「ホント、止みそうにないざんすねぇ」
愛嬌と艶のある垂れた目が、いつ止むとない雨を恨めしそうに眺めた。
「こんな日は胸の傷がちくちく痛むでやんす」
小さな溜め息一つ着くと、息に合わせ開いた浴衣の襟から刀傷が覗く。右肩から胸にかけて斬り付けられた傷跡。
痛々しいそれはすでに完治している。が、それでも痛みを感じさせるのは心の奥に潜んだものがそうさせていた。
降り止まない雨で思い出される過去の痛み。
なにものにも耐え難い心の奥に眠る痛みが、灰色の厚い雲の覆う陰鬱なこの空のように彼の心を重くする。
「せめて涙でも出てくれれば、少しは楽になるでやんすかねぇ」
ころりんと一転してみる。
垂らした藤色の長い髪は頭の動きに合わせて、さわさわと絹音を立ててついてくる。
髪はまるで反物が広がったように布団の上に流れていった。
「ちゅぅぅい」
可愛らしい鳴き声と共にひよこ虫が一匹、奥の間から顔を出す。茶色の背に大きく蝶々の形に結んだ紫色の帯がふりふり揺れる。
その姿はなかなか愛らしい。
左右6本の短い足を器用に動かし飼い主に、にじり寄っていった。
「なぁに? 慰めてくれるんでやんすか? くすくす‥‥ありがとさんでござんすよ」
「きゅぅぅい」
ようやく飼い主の側まで、到達したひよこ虫の頭を、まふまふと撫でてやる。
小さなペットは嬉しそうにじゃれつく仕草をみせた。
「でもねぇ‥‥やっぱり、こんな時は人の肌が恋しいモノでやんすね‥‥」
ポツリと呟く、つい出た本音。
主人の手にじゃれつくのを止め、つぶらな目で見返してくる、が、言われている意味を理解していないようだ。だが、ひよこ虫なりに主人が寂しいという感情に捕らわれていることは分かっている。
白い手に擦り寄り遊べと求めた。
「意地悪を言ってごめんでやんすよ。さぁさ遊びましょ」
「くぅぅい〜〜きゅん」
彼は、ひよこ虫をひっくり返し、お腹の辺りを撫でてやる。ペットは嬉しそうに、その手にちまい足を絡ませジャレついた。
ようやく雨が止んだ。雲の切れ間から顔を出した太陽は傾き、日差しの強さは感じさせない。
紫陽花の葉に残る雨雫は陽に反射して、キラキラと輝いた。
「さぁ、散歩にでも行くざんす」
っと横を向くと、すでにひよこ虫は遊び疲れて布団上で手足を縮めて丸くなっている。
なかなか愛らしい寝姿。ちょっと揺すったぐらいでは起きそうもない。
「仕方ないでやんすねぇ。わちき一人で行きますか」
ふぅと吐息を漏らし支度にかかった。
長い髪に櫛を入れ簪と和櫛だけで結い上げる。どこかルーズに上げた髪は艶を誘う。
薄く白粉をたたき、淡い紅を目尻、頬に引き、最後に薄い色の口紅を引けばお仕舞い。大輪の牡丹が咲くような美しさがソコにはある。
郭や育ちの所為か化粧も手慣れ、出掛ける準備は手早く整った。
「では行ってくるでやんすよ」
眠っているひよこ虫に肌掛けを乗せて家を後にした。
雨上がりの街は、一日の暮れに合わせるように穏やかな活気であふれ、その日の終わりを静かに迎えようとしていた。
行き交う人を巧みにすり抜けて街を過ぎて、街道に出た。暫く歩いていくと木立の間から湖が見えてくる。
ふわりっと風が、そよげば青臭い草の香りに混じり花の匂いが鼻孔をくすぐる。
「雨上がりは、良い風が吹くでやんす」
花の香りと夏の訪れがどこか浮き足立たせる。幾分、気が晴れてきたように思う。さらにモヤを除くため一度、身体を伸び上げた。
一緒に大きく深呼吸をすれば、軽く湿った空気が肺を満たす。また少し晴れる。気分も優れてきた。
唇に少しの笑みを乗せ、夜の訪れまでしばらく時間が掛かりそうな、湖ほとりの細道を歩く。
湖面は深青の澄明な水で満たされ、時折、流れる風にさわさわと白い波が立つ。
湖を縁取るように囲う色で溢れる花々が水際ギリギリまで迫り出して咲き競う。止まることのない季節が美しい景色を作り出していた。
ゆっくり辺りを見回しながら小道を行くと、ほとりに佇む人影は見覚えがあった。
全体に蒼い色に包まれた青年。
水際ギリギリに立ち、小さな波が舐めるようにその足元、白く長い法衣の裾にかかろうとするが、ほんの僅かに届かない。
遠くを眺める澄み切った蒼い瞳。瞳と同色の蒼髪を頭頂部できっちりと結び上げている。
湖畔から吹く悪戯な風がじゃれつけば、いかにも柔らかそうな髪はふわりと揺れだす。
淡い蒼色に包まれてはいても、冷たく研ぎ澄まされた氷の雰囲気ではなく、この湖面の景色のように穏やかな印象をあたえている。
「お今日和」
「はい、こんにちは、ここに来ればお逢いできると思っておりました」
「そうでやんすか」
近づき、話し掛ける。幾分、背の高い彼をやや見上げるように佇んでいた青年はにこりと微笑み、男性と思えないほど口調柔らかくおっとりと返答した。
法衣に包まれた身体から品の良さ滲んでいる。
「えぇ‥‥さっきのような雨が降った後は、貴方に会わなくちゃっなんて‥‥、ここに来れば会える気が……あっ撲、何だか変なことを言ってますね」
「いいえ、わちきも会いたいと思っていたでやんすよ、さぁさ、ゆっくり歩きましょう」
彼、お気に入りの場所の一つであるこの湖畔。以前の茶会にぽつりと話したことを青年はきちんと憶えてくれていた。彼のさり気ない優しさに、素直に喜び共に足を進める。
二人は暫く黙ってほとりを散策しはじめた。
辺りは、雨の止んだ事を喜ぶように小鳥達が囀り出す。一緒に小さな虫達の声も入ってくる。
「これから賑やかな季節が、始まるでやんす」
「えぇ、そうですね」
緑に萌える木立。その下では雨に濡れて生気を帯びた花達。
「あぁ、綺麗に咲いているでやんす」
揺れる赤紫のヘリオトロープ、薄いピンクの撫子。さり気なく開く白いているミヤマカタバミに蒼いオダマキ‥‥。
春から初夏へと時候は流れを湖畔に繁る草花で感じる。
着流した着物の裾が開くのを気にして、やや遅めの歩調でいる彼に合わせるように青年は歩幅を大きく、穏やかな足取りで行く。
時折、花を見るために屈むと銀色の十字架が揺れ、落ちかけた眼鏡を指で押し上げる。
ほとんど会話もなく、ただ歩く。彼はそれだけでよかった。
隣りに居る青年との僅かな間には温かさと優しさが行き来していた。
青年のかもし出す雰囲気に包まれ彼は、悪戯っぽく、くすくす笑い。
細まったやや垂れた目の左、すぐ下にある泣きほくろが魅力的なその笑顔に華を添えた。
つられる青年にもやわらかな微笑みが顔に描かれていく。
「愛送信」
唇から漏れる、絶えない笑みを左袖で隠すようにして彼は右の掌を胸の位置に掲げる。
細く長い指が並ぶ手を、青年は蒼瞳で慎ましやかなに見取り袖に隠れた自分の右手をそっと手を合わせた。
「愛受信」
二人のふざけっこ。いつもの何気ないふざけっこ。
向かい合い、重ねた互いの手からは温かな体温が行き交う。隣を歩居ていた時よりも数段温かさを感じることが出来た。
照れているが優しい物腰の青年を眺めていると、氷雨で冷え切った心に緩やかな温もりを与えられたように感じ、彼の心を潤した。
「さぁ、散歩の続きをしましょう」
「そうでやんすね」
蒼い澄んだやわらかな視線が彼を包んだ。
‥‥気持ちが二人の脇に佇む湖面のように和んでいく。