太陽が急速に落ちていく。
 秋の夕暮れは、夜へと空を急がせているように感じた。それに伴い人々も足早に街を歩いていく。
 街に、ぽつぽつ灯りが点りはじめると空気が徐々に冷たくなった。

「なぁ、言った通りだろ?ここのオヤジの淹れる茶は美味いんだよ」
「ほんに‥‥美味しいデス」
 酒場の暖炉は盛んに燃えて室内を暖めている。
 夜が進むにつれて、冷えていく外気とは反対に室内は熱気と騒がしさが充満している。
 派手なバイオリンの音、艶やかな嬌声、男達の騒ぐ声、がちゃがちゃと鳴るコップ‥‥。
 暖炉はすぐ側だというのに、薪のはぜる音は喧騒にかき消されて聞こえない。店の中は、まるで祭りの様な騒ぎだった。闇が訪れて間もないというのに。
 一人の少年- 年齢より幾分か若く見えるイドは窓と向かい合う様に、男と並び座ってる。
 鼻の頭がくっつきそうになるほど、間近に男の顔があった。そうでもしないと、この喧騒の中では会話ができないのだ。
 イドは別に悪い気はしていない。その証拠に男に勧められたお茶を啜っている。どうやらこの男は、ここ常連で主人と親しいらしい。
「あぁ見えてもアイツは、ビールを注ぐよりも茶を淹れさせる方が美味い」
「そうなのデスか?」
「酒なんざ作らすよりも、紅茶の調合と淹れ方がいい。ただアイツは強面で賑やかなのが好きだから酒場の方が合ってるがな」
 男は一度、主人に視線を投げてからイドを楽しそうに笑い見た。
 イドもつられて主人を見る。確かに酷く強面。間近で見たら震え上がりそうだ。こんな男がこの美味しいお茶を淹れるなんて。と、彼に失礼かも知れないが、その意外性に驚いて大きな蒼空色の目が見開かれた。
「本当は、少しブランデーを垂らすと美味いんだが」
「俺、酒ダメなんデス。少しでも入ると寝ちゃうのデス」
「そりゃぁ残念だ。さぁて俺はそろそろ酒を貰おう」
 席を立ち、カウンターに酒を取りに行く。がっちりしたその背中をイドは目で追った。
 男の姿はすぐに人混みの中に消えてしまう。
 そう広い店ではないが、人が溢れている。見ているだけでも人酔いしそうだ。
 姿が見えなくなった男にイドは大人っぽいさを感じていた。野性味のある赤い髪が印象的だ。 張りのある声で優しくイドと話す。冗談を交えながら。
 この男と出会ってそう長い時間は経っていない。30分程か。まだ名も知らない。それでも良かった。
 イドは男の持つ雰囲気がなんとなく気に入ったから。其れで良かった。

 ふぅと息をつき紅茶のカップに再度、口を付ける。やや冷めた紅茶は口内の至る所に良い芳香を放った。
 『楽園』と名付けられた紅茶。
 薔薇の甘い香りがする。喉に流すと舌に僅かに渋みが残った。だからもう一度、最初の甘さ求めて半透明な赤茶色の液体を啜る。
 男が云っていた。その渋みは神に逆らった男女の罰。追放された悲しみなんだと。
 イドはその言葉を、今の自分とリンクさせた。
 数ヶ月前までの恋人との出来事。
 罪と称呼して、愛というモノを分かち合った恋人。
 彼は、木からひらりと一舞、風に落ちる葉の様に儚げで物静かだった。今でも心の中に思い描くことができる。
 深緑色の長い髪は肩へとまっすぐに落ち、彼の物静かな人柄を表すかのよう。
 高い位置から顔を覗き込むような、優しく遠慮がちな蒼紫色の視線はいつも自分だけを見ていた。
 だが、それは季節が過ぎる事と同じようにイドの元から彼は去っていった。何も言わず、何も残さないで、この世界から消えた。
 いや、残したモノはある。

 罪。

 イドを罪人へと誘い、その人を失った悲しみから起きた自我の崩壊で忘れるモノが多くとも、
 魂に奥深く刻まれた罪は埋まることなく記憶から消えない。

 どんっ
 ビールのジョッキと茶の入った白い磁器のポットが、少し乱暴気味にテーブルに置かれた。
 その音でイドは我に返る。
 当たり前の様に男はイドの隣に腰掛け、屈託のない笑みを満面に乗せポットを傾けた。
「新しいお茶だ」
「ありがとうございます」
 乱雑な行動に悪気がないのは、その笑顔から見取れる。
 イドの生気のない様子を彼なりに気遣いっているらしく、温かな新しいお茶をカップに注ぐ。
 カップを両手で支えながら持ち、そっと顔に近づける。ほんわりと湯気がイドの頬を撫で、紅茶の良い匂いが鼻孔を擽った。
 紅茶をそっと喉に流すと、少し生気が戻ったみたいだ。これを入れた主人の紅茶への愛がイドにも流れたように感じた。
「ほんに美味しいお茶デス」
 甘える様に微笑んだイドに自慢気でいながらも、ちょっと照れた風な笑みを男は見せた。
 また、ぽつりぽつりと会話をしていく。何気ない話。
 顔を寄せ合い笑い合う。こんな簡単なことがいつの間にかイドの日常からは消えていた。

隣に人が坐るのは何ヶ月ぶりだったか――

 忘れてしまうほど長い間、隣に人が座っていなかった。
 イドは視線を窓に向けて、ぼやけて映し出される自分を見た。
 薄汚れ、お世辞にも綺麗だとは言い難い。道を行き交う人々は、窓に映しだれる彼の姿の上を知らぬ顔で過ぎていく。
「幾人過ぎていくのだろう‥‥」
 背のない椅子から、だらり力無く下がる真っ白な羽。
 光がどんな色にせよ蒼く映し出されるのは、彼の持つ体質の所為。純粋な有翼種の特徴を表すように耳にも小羽根が映えている。
 実りを迎えた麦穂を思わせる黄土色の髪は一房だけ、ちょこりと撥ねているのが愛嬌。
 だが今の彼は、どこも手つかずと言ったように愛らしく撥ねたその髪もだらりと重みで垂れ下がっていた。
 彼がいなくなってから、何もする気が起きなかった。髪の手入れも疎かにしがちだった。
「俺の前から‥‥なんで居らなくなったんだろう‥‥」
「さぁな、生きていりゃぁ、色々な出会いも悲しみ経験する。甘いことも苦いことも。満ちては欠ける月と同じ様に、それが当たり前だから」
 つい、唇から流れてしまった過去の愛の話。
 男は咎める様に眉を顰めるわけでなく、気にしていないと言う風な大人の駆け引き的な素振りを見せる訳でなく、真っ直ぐにイドを受け止めた。
 硝子の中のイド。その横に並ぶ赤い髪。身体が動くと窓に映りこんだ二人の姿が重なる。
 男が指さす上に月がぽっかり浮かんでいた。
 上弦がゆっくりと上がっていく。上がる月とは逆に夜は深く落ちる。
 イドの心は夜の様に罪へとおちることを望む。

 この男と、墜ちてみたい‥‥

 イドは男を誘うような官能的な笑みを浮かべて
「ねぇ、俺と一緒に罪の味を楽しまない?」
 小さく呟いた。

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