嫌い、嫌い、嫌い。
 パパなんて大っ嫌い。
 あたいは心の中でいっつも毒づいた。
 利己的で狡猾で計算高い―最低と言う言葉をそのまま当てはめた、この男(ひと)。
 毎度、あたいを言い様がない眼で嬲るこの男。
 今日こそは言ってやりたい事がある。


 ドンドンと床板を踏みならし、少女は一つの部屋を目指して歩く。
 愛くるしい顔に激昂の表情は、とても不釣り合いだ。黙して佇めば、人が振り返るほどの美少女。可憐な小花を思わせる、こぢんまりとした体躯。赤い瞳をした目はかなり大きく、くりりと丸い。
 ぴんっと肩口で跳ね返る白髪に負けないほどの透き通る白い肌。ほっくりとした頬が幼女と乙女の段階で揺れを表す様に、紅色に染まり化粧を施した様に綺麗に彩ってた。
 そんな少女――妃和を、茶道の弟子達が一目見かけたのならば熱病に掛かったようにとろんとした視線を向けてくる。
 しかし、他人が向けるならまだしも、実父である櫻迩までも向ける。最近はそれが堪えられない。
 朝一番から、この憤りは父に対してのモノだ。
 十五歳、年頃の妃和に父―櫻迩の性の対象めいた行動が彼女の悩みだった。
「パパ、今日という今日は堪忍できませぬ」
「ごきげんよう妃和。今日も良い天気ですね」
 ぴっしゃんと障子を左右に大きく開け放ち、櫻迩の居る部屋に乗り込む。
 お茶の香がする和室に佇む部屋の主は、いつものように朗らかな笑顔で挨拶をし、湯飲みを傾けた。
 親しみを込めた礼儀を妃和はまったく蔑ろにして、父に詰め寄る。
「なぜ、あのような事をするのです?」
「あのような事とは?」
 にたり、口元が歪む。しかし湯飲みの淵に隠れて彼女から見えない。
 苛々として妃和は、着物の裾が大きくめくれるのを構わず、その場で足を踏みならす。
「昨晩、勝手に部屋に入り、あたいの横で寝ていたでございましょ」
「はい、それが何か?」
 櫻迩は湯飲みから唇を離し飄々と言ってのける。まったく悪びれた様子無く、さもそれが当たり前の様に。その言動にぎりり、己の神経が音を立てるのを妃和は聞いた。しかし、ここでいつものように拗ねるわけにはいかない。
 なんとか彼女自身が不快に思う事を、父に伝えようと言の葉を試行錯誤させる。
「パパは幾つまで娘と床を共にする気でございますか? お止め下さいませ」
「おやまぁ、父に酷い事を言う娘ですね。仕置きをしましょうか?」
 にたりと意味深な微笑みが櫻迩の唇に浮かぶ。冷ややかな黒い視線。美しい切れ長な目は時として冷酷な色にもみえる。
 ぞくりと背中に冷水を流し込まれた感覚に陥った。
 いい歳と言われた彼は、そう歳ではない。数えで二十五。それよりも二つ三つは若く見える。
 ただ茶道の家元という職業柄、穏やかな雰囲気を纏う。しかしこの顔は表向きであり、内は総毛立つほどの冷酷で狡猾な面を持っている。
 この場は妃和との二人。他人にそう見せられない狡猾な顔で挑み掛かった。だが、あくまでも口調は変わらず柔らかい。
「とても愛らしい寝顔でしたよ。全く起きないのには驚きました。何故、私が居た事を知っているのです?」
「パパが自ら持ち込んだ上掛けがそのままあったからです」
「おやまぁ、失敗をしました。これからそのような事の無い様に注意しましょう」
 細く軽く受け流され妃和は無性に腹が立ってきた。手に握った赤い組紐を定めて投げつけたい動に駆られるが、寸前で飲み込む。
 この男が父である事のは変わりない。父に手を挙げるなど恥ずべき事。
 だが、父はそれを知ってか更に追い打つ様に湯飲みを再度口元に当てながら吐いた。
「流石にまだ発育途中のその躰に触れる事はできませんね。香を楽しむだけで我慢しているのですから、良いではありませんか」
 怒りが爆発した。
「いい加減にして! パパでもやって良い事悪い事があります」
「娘だからですよ。父親の特権でしょう」
 妃和は言葉を失った。少しの間、思考が止まる。が、普段から赤く彩る頬が、怒りでなおも赤味をさしだす。
感情が押さえきれなくなる。
 くるり、後ろを向き、勢いよくぴしゃりと障子を閉めて部屋を出ていった。
 やはり、父の口には適わない。大きな赤い瞳は元の色だけでない色も交えていた。

 夕刻。
 一通りのお稽古が終わり弟子達が、一声、挨拶をしながら門をくぐっていく。縁側に腰を下ろし柱に背中を預け、ぼんやりと赤い組紐であやとりをしている。
 乾いた風が、その足を撫でていく。素足の所為か寒かった。
『どうして、パパはあたいに』
 一人ごちる。
 項垂れ、力無い躰を柱に預けた小さな身体。北風に吹かれる野花のように儚げだ。活気の色を失った瞳は、手に絡まる紐の上に落ちていた。
 一人あやとり。
 両手の指を上から下からと取り、何かの形を為そうとさせるが、どこか疎かになり絡めなければいけない紐を取り落としては、するると抜けて元の輪へと戻してしまう。
 いつまでも結ばれた紐は円を描くばかり。まるで櫻迩との関係のよう。
 父と娘。その絆がある以上、危うい関係には至れない。
 今、妃和の指に巻き付く紐の様に、形を為さないのが心のどこかで歯がゆかった。触れられて怒るのは、その歯がゆさも含まれるため。
 父と娘である以上、世の道徳を破る事はできないと思っていた。
「妃和、こちらへいらっしゃい。美味しいお菓子がありますよ。さぁさ、今朝の事は機嫌を治して下さいな」
 優しい呼びかけと共に櫻迩が現れる。
「‥‥」
 どこか身を固くする。
「こんな処に坐っていては風邪を引きます。おや? あやとりですか? なかなか難しいでしょう」
 櫻迩は妃和の手から紐を取ると、両手の親指、小指に掛け、手早く中指の背に掛けると手を引き最初の「山」を作る。
「さぁ、妃和の番ですよ」
「え?」
 困ったように整った眉をハの字に歪め、上目遣いで櫻迩を見上げる。
 彼は早くと促すように、にっこりと口角を持ち上げ、紐を掛けた手を突き出す。
 渋々、次の手をとり櫻迩に差し出す。彼もまた巧みに指を動かし、次から次へと色々な物の形を作った。紐は互いの手を渡りながら、それまでと違う容姿になる。
山、川、網、馬、鼓‥‥。
 取り損ねたら、負けてしまうあやとり。妃和は指を迷わせながらも、必死で形を為した紐を自分の指に絡め、他の形へと変化させる。
 櫻迩もまた、そんな妃和を見やり、楽しげに目を細めた。
 時折、紅葉の様な小さい手から紐を取るのに手間どうと、互いに見合わせ小さく声をたてる。

「そら‥‥妃和、兎です。可愛いでしょう」
「はい、パパ」
 櫻迩はぐいっと右手の人差し指と中指を開き高めに腕をあげる。それによって兎の顔の部分、長い耳が表現されていた。一方の左手で体の部分。紐は複雑の動きを見せ身体の形を作っている。
 愛らしい兎。
 寒さを忘れて、二人は縁側であやとりに興じた。


 大嫌い、大嫌い、大嫌い。
 パパなんて大嫌い。
 あたいのその気持ちは、また今度。
 今度、何かあったら言ってやる。
 きっと好き‥‥
 それもまた今度。
 やんわりと赤と白の着物の下に隠して、何かの折りに引き出せるように大切に仕舞って置きましょう。

書庫