ここは男の憩い。色街だ。
百ある見世がひしめき合うように軒を連ね、どの見世先にも立派な灯籠がその特徴を表していた。
なかでも一等、目を引くのは陽華楼の灯籠。
美しい花々が象られた紙細工はたっぷりと職人の技量と贅があしらわれた逸品物。趣向を凝らした灯籠の真ん中に見世の名『陽華楼』と華麗な書体で書き込まれていた。
その灯籠に負けないほどどっしりとした趣ある店構えをみせ、囲われている見目麗しい妓達を置く場所として良く合っている。
しかし弱々しい春の日が差す昼間は、その行燈に火は入れられることなく、大門をくぐるも客も少ない。
遊女達はこの合間、手習いや身支度、買い物をしたりと思うままに過ごしている。
夜の雰囲気とは違う柔らいだ妓達の声が見世の中に響く。居続けの客が数名、妓の部屋で寝泊まりしている以外、めぼしい客はいない。
「藤白ちゃんたらさ、恋文貰ったんだって」
「いいなぁ、あたいも貰いたいわぁ、ねぇどの旦那さんから?」
気の休まる日中のあいだ妓達は、娘の様にはしゃぎ愛らしい声をたてて笑ってる。
花咲く話題は、やはり恋の話。
この界隈に根を下ろしていようが変わらない。いや、それ以上に熱い恋を願っている。
そんな賑やかなやり取りを襲は、自室で桐嶋に支度の手伝いをして貰いながら、襖越しに聞いていた。
「藤白ちゃん達ったら、随分と華やかねぇ」
「そぅでうすねぇ、花魁」
遊女世話役の桐嶋は音もなく腰を上げる。が、は右手を上げて、やんわりと制した。
別段、彼女は煩がっているわけでもない。華やかな声は別に厭ではないのだ。
大部屋で過ごす鹿恋や新造達とは違い、自室で過ごす事が多い襲にとっては聞こえてくる可愛らしいざわめきは楽しいもの。聞いているだけでも知らずと心が和む。
桐嶋は襲に会釈をし、いつものように櫛を持つと、ゆっくりとその黒く豊かな髪を梳き始めた。
「花魁はどうです? 恋の話は」
「恋ねぇ‥‥あちきにとっちゃぁ昔の話さ。仕方も忘れたよ」
襲は少し自嘲気味に微笑む。
嫌味ではない。
襖越しの会話に耳を傾け、自分にも無邪気に恋に憧れを抱いていた時期があった事を思い出していた。そして小さく溜め息を吐く。
恋を売り物にする商売。これまで沢山の恋をした。
紛物の恋。
襲はもう一度、小さく息を吐くと鏡の中に映る自分をみた。花魁と呼ばれるにふさわしい美がそこにある。
夜の顔は陽華楼の顔(かんばせ)襲花魁。
秀でた容姿と気転の早い受け答え、細やかな配慮に評が高く、男だけでなく気っ風の良さと頼りがいのある姐さんぶりで妓達からも慕われていた。
その御利益か、畳に幾つもの逢い状が無造作に広げられている。
良い香で燻された和紙や美しい花を添えての文面。だが、襲にはどれを眺めても同じように見え、ときめきが湧かない。
昼日向で見る逢い状は、なおさら紛物の金のように派手な輝きばかりが目に付き安っぽく感じた。
彼女を指名し、一夜の恋人を演じる事は承知はしているが、疑似の恋ばかりに触れては心の隅が燻る。
だんだんと曇る襲の顔を桐嶋は鏡越しから窺い、櫛を化粧箱に戻し纏めた黒髪を真っ白な紐できゅっと結び上げた。最後の仕上げに耳元に赤い花の簪を挿す。
「花魁、灯が付くには時間があります。よろしければ外の空気を吸いがてら、甘いモノでもいかがでしょう?」
結い終えた髪を確認するように鏡を覗く襲に桐嶋は問いかけた。鏡の中の襲は、はにかんだ笑みを唇に乗せ、
「えぇ、お前が一緒なら行くよ」
春の風‥‥
そう言うには、早すぎる冷たい空気が頬を撫でた。
彼女らの目指す甘味屋は花街の隅の寺側。見世からはやや距離はある。小さく質素な構えのそこは襲と同じ職だった女が、やっている遊女達の休憩場だ。善哉が美味しいと、評判である。
「昨日は、あんなに暖かったのにねぇ」
「春は日毎の気温の変動が激しい時期でございますよ」
襲は首をすくめ、紅の引かれていない唇を尖らす。座敷に呼ばれた星月夜のように艶やかな花魁姿とは違い、紺地に白い小梅が散らされた着物姿は化粧気もなく地味だ。
だが、着物の梅柄のように可憐で高潔な香り立つ姿。
表情が気温によって蕾む花のように良く動き、拗ねた表情は愛嬌たっぷりで花魁としての素行に些か欠けてはいるが客の前ではけっして出さない顔がそこにあった。
びゅぅ。
「おぉ、寒いわぇ」
「おや?」
身を切る冷たい風が空を切って小さな渦を作り、辺りの埃を巻き込みクルクルと舞う。小さな旋風の中に幾枚もの紙達はキリキリ舞いに風の吹く方に流れ、流され踊る。
風は僅かに移動し解けると、二人の足元にひらりと紙が落ちた。桐嶋が屈み拾い上げる。
『公用に 出て行く道や 春の月』
俳句だ。
和紙に書かれる文字は神経質で細いものであるが、男の筆であることが伺えた。更に一枚、風に舞った紙を掴んだ。丸められた皺が残る和紙に、同じ文字が墨で書き込まれている。
『あばらやに 寝ていて寒し 春の月』
「そりゃぁねぇ、寒いと思うわ」
「えぇ」
襲は率直な感想を口にだす。なんとも、みもふたもないものだ。同意する桐嶋の唇端にも笑みが乗る。
言う通りお世辞にも上手い句ではない。だが素直な感想と捕らえ、純粋で可愛らしいものだ。
美辞麗句を並び立てた逢状よりも襲は心引かれた。
また一枚、また一枚と寺の裏手の雑木林の方から風の背に乗りあちこち運ばれていく。誰がこんなに紙を撒いたのだろうと、訝しげに二人は顔を見合わせると、
「おぅ、姐さん。すまねぇな」
一人の着流しの男が現れた。荒らげな江戸言葉は歯切れが良く使い慣れている。焦げ茶色の髪を丁寧に結い上げて、着ている着物は流行の柄をさり気なく取り入れたなかなかの洒落たものだ。
男は軽い足取りで二人の前に立つ。
どうも紙―俳句の持ち主らしい。もう一方の手には襲が持つのと同じような皺の入った紙が握られていた。
「お困りのようだねぇ」
「あぁ、風に煽られちまってな」
「桐嶋、集めるのをお手伝いなさい」
「はい。花魁」
襲が桐嶋に言い付け、紙を拾う手伝いをさせる。落とし主である男も一緒に手を伸ばし散らばる紙を拾うと、あらかたを集めることが出来た。
「かたじけねぇ」
紙を受け取ると男は二人に小さく礼をした。頭がゆったりと元の位置へ戻った時、柔らかな日差しが瞳を琥珀色に変え、何とも云えない表情を作り出す。
僅かに唇の間から覗く白い歯。こぼれる笑みは決して気障ではなく、悪戯っ子の無邪気さえ感じられる。
襲は、あまりの眩しさに相手をジッと眺めてしまった。
男の顔にやや訝しげなモノが乗る。慌てて目を逸らし、逃がした後で不振に思われたかと確認するように襲は視線を再度、戻してみる。
見やった男の顔は彼女の素振りにカラカラと笑い、声は乾燥した空気に混じっていった。
その笑顔に心を解かし襲も釣られて笑ってしまう。見世に来る男らと違い、その屈託の無さが心地良い。
ふいに男の手に握られた発句達の運命が気になった。
「兄さん、このような場所で何をしておいでです? 差し支えがなかったら教えておくんなまし」
「あぁ、ちょっくら焚き火を‥‥ついでに芋なんざ焼いて喰ったら美味いかと思ってさ」
「え? それを燃してちまうのですか」
驚きを隠せない。
「そうだ。出来が良くねぇから、焚き火の薪の足しにしようかと思ってる」
確かに良い出来とは言い難い。だが燃やしてしまうのは勿体ない気がした。純朴で朗らかな俳句は襲の胸の中にきちんと残っている。紛物くさくない句は、じわじわと心に沁みていた。
燃やすと聞いて彼女の曇った顔に、男は自分の胸に手を忍ばせ懐から小さな冊子を取り出す。
「実はこっちに清書してあるんだよ」
「あら、ほんとわぇ」
人懐っこく笑う瞳が襲を包む。さらに砕けた口調で彼女は頷き笑った。
「その焚き火に呼ばれても良いでやんしょうか?」
「もちろんだとも、芋も食っていきねぇ」
恋の芽生えの温かさとは違うかも知れないが、襲の胸は温かな春の訪れを感じていた