秋に盛り向かえ、そのまま残った花が数本、褪せた色のままに冷える風に吹かれて揺れている。春が遠い日々。花の時期など、まだ先。
寂しいばかりの狭い庭を前にハジメは縁側に腰を下ろし、背中を固い柱に預けて酒を飲んでいた。どうすればそういくのか解らないが、酒を満たした杯を顔を包む布の中へ巧い具合に差し入れている。
布地から出る半ば眠っているような一重瞼の眼と白い額が薄ら色付いているように思えた。
そのわずかな箇所から覗く肌に奇妙な赤い紋様が描かれている。
痣‥‥、苛立つ感情を野犬のように剥き出たまま日々、血の匂いを漂わせていた過去の産物だ。
不明という種の血か、他種族に無い特殊な体質が現れ、斬れば斬るほど、半身に凡字の模様が醜く描かれていった。人の視線を避けるための覆面は、当時からほとんど外されることがない。
唯一、顔の部分品で出ている黒い眼は、庭を見ながらも、ひどく鬱々としていた。だが端からは、そう感じず苛々と虫の居所が悪い素振りに見える。
ハジメ自身、それでも良かった。どうでもいいという、投げやりな空気を辺りに垂れ流している。彼にしては珍しく感情を隠そうとはせず剥き出していた。寒々しく張りつめる空気を一層、冷たくし機械的に酒を喉に流し込み続けている。
昼、少し前の時刻だというのに隣に置かれた盆の上の銚子が、幾つか空いていた。酒を煽るたび、銚子が転がるたびに異様な殺気を孕むこの男は気味悪い。
座敷で本を読んでいた青年は、酒に浸る男の背中を少し開いた障子越しから伺っていた。
伺うだけで、声は掛けない。半日、間の延びたような時間が過ぎていく。
この家には今は二人しかいなかった。声を掛け合わなければ時間ばかりが風と一緒に過ぎていくだけ。
静かな時間を好む高志であるが、今朝から続く神経の糸が張りるような静けさが堪らなくなってきていた。
ハジメの背中から漲る殺気は、普段の昼行灯な様子と違い、障子を一枚隔てた場所にいる彼の元にもピリピリと空気を介して届いてくる。
普段から表情が薄い青年の顔に、気がかりという風な色が珍しく浮かぶ。だが安易に聞くことはしない。
聞いても答えるはずなど無いだろう、本の内容を取り込んでいく頭の片隅でそう考えた。
曖昧に誤魔化し気を遣い、あたり障りのない日常的な下らない会話をされるか、または更に苛々とした雰囲気に当てられるか、と思った。
青年はそう長い付き合いではないが、この男の操作法を心得つつある。今は彼のモノ。いや、忠実な番犬。
それはハジメが申し出たことだった。自分に何かを感じ、嗅ぎ取ったのであろう。結縁を結んだ時に、彼を番犬として置くことも結んだ。
薄紅を引いたような赤い唇を開き、青年は本に目を落としたまま、一声を声を掛けた。
「ハジメ、少し散歩に出ましょう」
「‥‥」
彼の言葉に杯を置き、脇に置いた刀を握り立ち上がる。無言であるがそれが彼の答え。縁側のハジメの動く気配に視線を上げ、手に持っていた本を丁寧に置いた。
かえす褐色の手の甲で優雅に着物の皺を払うと立ち上り、わずかに足を引きずりながら戸へ向かう。その右後ろに影のように音も立てずハジメが付く。
そこが彼の歩く定位置。
主人の脇を歩くのは無礼。後ろに付きつつも咄嗟には動ける位置が番犬であるハジメの場所である。
その場に着く事は彼を主人と認め、己の刃を当てることは無いと表している。
利き手が逆の所為か立ち位置は真逆であるが、ハジメはかしこまることなくこなし、身に付いた武士としての作法をそれとなく表していた。
二人は庭を過ぎて小さな門をくぐり抜ける。青年のゆったりとした歩調に合わせて、乾燥した明るい色の土にガラガラと下駄の音を響かせた。
街を歩く。
昼日中だというのに暖かさの欠片もない弱々しい陽光が、人のまばらな街に差し込んでいる。
たまに抜ける冷えて乾いた風。
薄着ではないが、肌の露出している部分や着物の隙間から風に触れれば痛さに似た冷たさを感じる。雪山から吹き下ろしてくる空っ風特有の冷たさ。
乾燥した塵を巧みに舞わし、散り散りばらばらにする。何処行くわけどもなく歩く二人は家にいる時と同じまま会話もしないで道を進む。
小さな城下の石畳に下駄を鳴らし、飲み屋や茶屋が連なる憩い大門をくぐり、街の外れの庭園の前に行き着いた。
入り口の前で、ようやく青年が寒さでなおも赤みの差した薄い唇を動かし、静かな声を掛ける。
「ただ、歩いていても仕方ありません。中に入って少し休みながら歩きましょう」
「あい」
ひっそりとした園。溜池が在りその回りは木々が並ぶ遊歩道。
芽吹きの様子が見えない枝は黒々と悲しげな表情を表し、陽の当たらない冷たい地面は霜柱が土を盛り上げている。
和みの場所は寒い季節のせいもあり人の通りも淋しい。街の通り以上に人の暖かさを感じない。青年は変わらずゆったりと進む。少し引きずる足を庇うように。長い時間この寒い中を歩くのは痛みを伴うのだ。
時折、歩みを止めて何かに耳を傾ける。
風の振動が木立の間から耳を掠め金糸の髪を攫い靡かす。髪を静めるように押さえると、飾り細工のような細い指にまといついた。ハジメは彼の思うままに従い、歩みを止めたりしながら進む。
っと、枝ばかりの黒々とした木立の先に常緑樹の囲いが見えてくる。近づけば、濃緑の葉にの間から無数の中輪の真朱色の花。
筒状になった花弁の中心に黄色の雄しべが見える。
椿だ。
珍しく朗らかな表情を浮かべた青年は、
「おや、椿の花ですよ、綺麗ですね」
「あい」
咲きの初めの赤黒い花弁は盛りも過ぎ、花弁の角がわずかに茶色く変色し始めていた。 花一つを包むように片手で支え、切れ長の目は枯れ急ぐ花に視線を落とす。その瞳は、さも嬉しげに花を愛でる色が乗っている。
ハジメは返事の後にもう一度、青年の手が添えられている花に与えられた意味を紡ぐ。
「花言葉は慎み‥‥」
「ほぅ。それは良い言葉ですね。慎み。慎み‥‥貴方の日頃のように感じます」
彼は花言葉をかみ締めるように反復した。
「忝ない。しかし一方の意味は物忌み。不浄を浄める意。どう足掻いても浄めることの出来ない俺には勿体ない」
ぽつりとハジメが言う。彼は背後のハジメの言葉に何か思うところがあったのか、花から顔を上げ振り返る。
「この寒い中、よく散らずに咲いてます。風に吹かれても椿は散らないと聞きましたよ」
「あい、枯れる前に花が地に落ちる。桜のように散ることはないが艶やかなうちに終わりを迎えるその花は桜同様、武士の如く潔良いとされておる」
「左様ですか。しかし、なぜハジメの庭には無いのですか? 梅、桃、桜‥‥その他にも四季に咲く花があるというのに」
ハジメは何気のない問いに、表情を硬く俯く。
椿は庭木には持ってこいだ。寒さに強く、晩秋から初春にかけて美しい花を沢山付ける。花の少ないこの時期を楽しむことが出来ようともの。
「‥‥椿は綺麗だが、花が首から落ちる。それは斬首を連想させ武士ではあるまじき死に方。そのような花は植えたら縁起が悪い。それに‥‥」
「それに?」
高志は段々と声が下がっていくハジメに問う。黒い視線は下を向き、思案と胸の内に引っ掛かっている感情を晒けだした。
「元上司は切腹を許されず首を落とされ、友も同士も死んだ。皆絶えたのはこの季節。生き残ったのは俺と僅かな残兵。それも散り散りになり行方がわからぬ」
ハジメの過去。前に仕えていた主人を思い、死んだこの時期を迎える度に鬱いだ気を酒で紛らわせていた。
溢れ出る殺気は彼の生き残った事への後悔。
「ハジメ‥‥」
「‥‥」
目の前の男の名を呼ぶ。その声は静かだが尖りがある。機嫌の悪さを露わにしだした声音。ハジメの行動に納得をしながらも胸の内では腑に落ちず、どろりとした沸き上がる悪意にも近い感情が芽生えた。蒼い瞳は禍々しい色へと変わっていく。
それが分からぬ程、ハジメは駄犬ではなかった。一歩、下がろうとした時、向き直った高志は一歩、踏み出す。
するりと伸びた褐色の腕がハジメの腰に差してある小刀を抜いたと思うと、細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど力強さで、彼を椿の垣根に押しつけた。それはあっという間の出来事。
青光りする刃を痣だらけの左首筋に当てた。皮一枚を斬り白銀に深紅が伝う。ダークエルフ種が誇る戦闘能力の高さをものがたった。
「昔を思い出していたのですね‥‥そんなに元の上司が良いですか?」
「俺が過去と決別しようが、思い出そうが自由だ」
感心無さ気に無機質に答えるハジメは背後から椿の香りと高志の強い悋気に覆面を掛けて見えない唇を歪めた。
誘導に近い尋問に乗せられ、話をしてしまった自分が腹ただしく思い、垣間見えた青年の心を煽り弄ぶ言い回しで逆らうように試してみた。その怒りが本物かを。
彼は忠実な番犬ではあるからこそ、主人を試す。
「おや、まぁ。私の犬になった癖になんと身勝手な。少しきつめに罰を与えましょう」
「あぁ、あんたに送って貰えるのでしたら至極」
そのまま下に引けば首は落とせはしないが、命を絶てる血管を裂く事が可能だ。ハジメは逆らわない。それどころか斬れと言わんばかりに顎を突き上げ待っている。
刃の行方に主人の本心を問う。斬られれば、それまでの話。深く言葉は交わさなくとも、これで自分の立場も解る。
青年は炯々と蒼い瞳でハジメを射抜く。
張りつめる二人の気。その間をかさかさと葉擦れの音が過ぎてゆき冷たい空気に混じり、また椿の香りが漂い出す。
「止めておきましょう。あなたを送ったら、元上司を喜ばせるだけです。それは面白くない」
「あい」
ふと、弱々しい光を反射させた刃を下ろし、ハジメの腰に残る鞘に収めた。青年は唇を意味ありげに持ち上げ、また前を歩きだす。少し引きずる足の微かな音が庭園の中に聞こえていく。
ハジメは自分の定位置。彼のやや左後ろを歩調を合わせ歩く。ついてきている事を気配で感じ、心の中でほくそ笑む。しかし表のその顔はあくまでも冷静。
まだ残る漲る殺気の気は瑠璃石を思わす瞳から消えていない。
淀んだ狂気に似た宝石。視線を下げれば褐色の頬に影を落とす長い睫毛と金糸の前髪に被われ隠された。
ハジメは彼の持つギリギリの狂気にも似た気配が、とても気に入っていった。彼の身体から放たれる懐かしい匂いが居心地が良いいのだ。
たとえその刃を斬り付けられようと、その時はさも嬉しげな顔で逝くだろうと思った。