なんの前触れもなく、ゆったりと空気を伝いながらユーリリカの耳にその言葉は流れ込んだ。
「何もしなくていい、見ているだけでいい、勝手に一人で嘆いていろ」
軽蔑を含んだ羅列は彼女の耳から身体を巡り、脳に行き渡る血を減少させ目眩と痺れを与えた。まるで強い薬を飲み下した時のように。
これまで築き上げた幸福感や自信はいとも容易く砕かれた。
あまりの衝撃的な言葉の前で、ユーリリカは異議を唱えることすら出せずにいる。
たしかにお節介やきなトコロがある。性格上、物事をハッキリと言う傾向も認める。だが、そこまで手酷い事を言われる覚えはない。
訴えようと気持ちが強く働けば働くほど、裏腹に赤い唇は震えるばかりで言葉が先に出てくることはなかった。
単語が胸の奥まで突き刺さり深くえぐっている。いや、粉々に打ち砕かれたとさえ感じた。
愕然とした表情を浮かべている彼女の視線の先に、もう誰もいない。
相手は言うだけ言って振り返りもせず彼女を置き去ってしまっていた。もはや体温も残り香の一つもない。
ユーリリカは、暫し相手の居た場所を見つめ、気が抜けたように立っていた。
どれくらい呆然としていたのだろう。日差しは西に傾き濃いオレンジ色になり始めている。
話しをしていたのは昼を少し前にした時間だったことを、じんわりとした頭の隅で思い出す。
あれから結構な時間が過ぎたらしい。部屋は昼間の過ごしやすい温度から徐々に気温が下がり始め、足元から少しずつ冷えてくる。
「私のしてきたことは‥‥なに‥‥?」
答えてくれる相手が居ないことはわかっている。ようやく言葉を紡ぎ出した言葉。今更、遅いが。
耳に届くのは、己の声だけ。
「私のしてきたことは‥‥」
同じ言葉を繰り返す。その声は、いつのように覇気があるわけでもない。甘い呟きの声でもない。
乾いた、全てに対して無味を感じたユーリリカの問いだった。
彼女の足はフラフラと進んだ。行き先は、もう決まっている。
見慣れた街を過ぎ、険しい山道を越える。目的の地までは馬を使えば半日。徒歩であるユーリリカは、ゆうに二日かかる。承知の上で細い足で懸命に石畳の街道を進んでいった。
ようやく行き着いた先は、森の中の湖。水面にぽっかりと生える巨木が何とも不可思議な光景を晒している。
ここが彼女の目的の地。
風が湖面を走り抜けていく。白い波が立ち、まるで巨大な蛇の鱗のように見える。
岸に羽根を休める水鳥の群れ。野生の鹿の姿も混じっていた。
湖へ一歩進む。水と混じり合う土の湿気った匂いが鼻孔をくすぐる。キラキラと降り注ぐ木漏れ日。澄んだ空気。
金色の瞳は、自然の美しい光景にふっと細まる。だが、すぐに動かされ射抜くように湖のなかにそびえる樹を見つめ、心と共に踏み出した。
『私には、もういらない』
着ている薄い絹と一緒にざぶざぶと水音が、身体にまとわりつく。水の抵抗が歩みを邪魔する。
街に居すぎたせいで体力が衰えたのだと、自嘲気味に唇の端を上げた。
日々、王宮から渡される様々な雑務をソツくこなす仲間と自分の姿が脳裏を巡る。たまに愚痴も出るが、はるかに楽しさが増していた。
あの言葉を聞くまでは‥‥。
思い出を振り切るように頭(かぶり)を振った。真っ赤な炎の髪がわずかに遅れながら顔と同じ方向へ動く。水に触れるとじゅっと音を立てて蒸発する。それでも躊躇なく、また一歩と深みに足を進めていった。
冷えた氷の水に身体が沈む。あまりの冷たさに心臓が驚き早鐘のように打つ。
それでも足の動きを止めない。着実に深い処へと進み腰から胸、そして肩…首へと沈んでいった。
髪や身体から発する炎が水の中で揺らめき歪な音を立て色褪せながら踊る。つま先は水底に届いていない。湖にそびえる樹の根に向かって泳ぎだす。
『私の還る場所は‥‥』
色を亡くした唇に乗せる。深く静かな湖の底に恐さはなかった。
『私の還るべき場所は‥‥ここ‥‥』
水の中だというのにしっかりと根を下ろした樹。太く丈夫な幹は生きとしている者の御霊を静かに見つめ、根は硬い土、海底の岩をも突き進み、冥界、異界の先まで複雑に張り巡っている。
神々しい紺碧の枝は天高く伸び、見える者の目を奪いあまりの強さに平伏しさせる。
生命の樹。
それは稀に精霊を生み出した。ユーリリカは樹が落とした一片の葉が炎と変事、淡い色を纏い生まれた炎の精霊である。
樹は各地で様々な呼び名があるが、ユーリリカは自分を生んだ樹に天海樹と名を付け呼ぶことにした。
そして今、打ちしがれた心と共に湖に沈み母である樹の根に還ってきた。
疲れた身体、心を休めたい。
ウロを見つけた。ぽっかりと開いた場所は測ったように体型に合わせたやや長細い空間。まるで、彼女の帰宅を解っていたようだ。ユーリリカは、そこで眠ることに決め重い腕を動かした。
身体を横たえると彼女を包み込むように根がそっと動き、ゆっくりと支え抱きしめる。
瞼を閉じ、呼吸を静かにして一定を保つと意識が遠のいていく。
ゆっくり、ゆっくりと眠りに引き込まれてる。
どんな夢を観るのだろう?
悪夢?良い夢?わからない。
すでに手足の先の感覚は無く、ユラユラ揺られる水の流れに力を抜いた。
ひどい言葉を吐き出しその場を去った人の顔が瞼の裏にちらつく。
あの目線。言葉の一字一句。忘れられない。
ユーリリカは目尻から涙を流した。しかし涙は湖の水と同化した。
悲痛な気持ちに貫かれながら、静寂が身体を包む。
もう、ユーリリカは熱と色を失い暗な闇の中に落ちた。
どれくらいの時間が経過したのだろう。
ゆっくりと瞬きをした。視線を落とす。目下に青々とした緑が広がっていた。
「‥‥?」
視界もそうだが、ユーリリカは不思議な感覚に捕らわれてた。身体が意識が軽い。水の圧迫と根の重さを感じないのだ。
彼女のグラマラスな身体は眩しい陽光の浴び、緑の香を含んだ一陣の風とひとつになっていた。
どこまでも晴れた空。小鳥の群れが横を過ぎていく。湖の底で眠っている筈の自分はなぜか空にいた。
『夢なのか?』
夢とは思えないほどリアルな映像。
一つ足を、視点を進めるごとに山を越え、見たことのない国や景色がユーリリカの瞳に飛び込む。
彼女は風と共に世界を駆けている。
パレードでの賑わう城下。山にへばり付きマッチ箱を積み重ねたような街。小さな漁村。緑が萌える野原。広く大きい川。
風に乗り各地を彷徨う。
変わらない幸福に包まれた街。変わらないと思ったが、違っていた。眠っている間に世界では様々な事が起きていた。
人の楽しんで喜んでいる顔ばかりではない。
戦争、呪竜召還。悲しみの中にいる人々。
破壊された国の上空にとどまった。ソコだけ色をなくしたように暗い灰色が支配している。
数日前に戦争を終えたばかりだろう。しかも敗戦に終わったらしい。
巨大魔法の力によって瓦礫になった家や城の復旧に人々は黙々と力を合わせていた。
疲れ、その場にへたり込むものも少なくない。しかし人々は慰め合い立ち上がり作業を開始する。
彼らは懸命に働いている。ユーリリカは静かに眺めるだけで手伝うことはしない。
胸の内で迷った。今すぐ手を貸したい。
彼女の放っておけない性分がでそうになる。苦しむ人々と一緒に悲観、全てを分かち合い、心から彼らに安らぎを与えたい。
『けれど、あの言葉をまた吐き出されたらどうしよう』
そう思うと自然に足が動かず、差し出そうとした手が下がる。怖かった。吐き出される言葉が。
風を纏いながら、彼らをそっと眺める。
戸惑う。手を貸したいが出来ないジレンマがユーリリカにのし掛かっていく。
ふと、一人の男の人が目に止まった。
まだ幼さを残した青年が瓦礫を籠の中に入れている。一通り詰めると背負い歩き出す。
街の外れまで捨てに行くのだろう。重い籠を背負っている青年は真っ白な歯を食いしばり、一歩一歩力強く踏み出していく。
顔は日焼けばかりではない黒さだ。泥と汗で煤けて酷い有様になっていた。
が、エメラルド色の瞳は輝き真っ直ぐに前を見ている。
瓦礫の重み重みで足がふらついている。もしかしたら食事もろくに取っていないのかもしれない。
よろめきながらも顔を上げ、その表情には一点の曇りがない。
つと、青年は足を止めた。
真っ黒な地べたに屈み込む。額の汗が陽光に照らされ輝いている。
汚れた手をそっと差し出す。その指の先に触れたのは小さな黄色い花、蒲公英。
この時期、あちこちに群生するこの花はよく見かけるものだが、戦争のため土は踏み にじられ、咲く場所を奪われていた。崩壊した建物と黒々とした土が目立つそこに色を与えている。
奇跡的に残った蒲公英はユーリリカの纏う風に揺れ、まるで微笑みかけるように青年の温もりに答えている。青年も優しい笑顔で、ぽつりと呟く。
「仲間が踏みにじられても悲しまないで咲いてるんだね。そうだね、一から作れる。頑張って君も綿帽子を風に乗せて仲間を増やすんだよ」
優しい問いかけ。
その花へのかける言葉にユーリリカの胸に鈍く疼いていた言葉の棘が抜け落ち、痛みを和らいでいった。不安のさざ波が治まり平穏で温かな気持ちが胸に占めていく。
青年の言った通りもう一度、やり直そうと決意を固めた。
ユーリリカの瞳に活力が溢れてくる。
そうだ、湖に帰って眠っている身体を醒まそう。古く忌まわしい記憶をバネにして。
瞼を閉じる。風の動きがとても早い。炎に煽られ作られた突風のように空気が肌を刺激する。
フっと匂いが変わった。一瞬で。目眩のような感覚に捕らわれた瞬間に冷たい液体の中にいた。
湖の底だ。
夢か現実か解らないが帰ってきた。母の元に。
眠っていたユーリリカを優しく抱いた根は目覚めを悟ったのか、離れている。
ゆっくりと浮上する身体。空を飛んでいた時のように体が軽い。水の抵抗が感じられない
落ちるよりも速いスピードで地の戻った彼女の身体から、以前のように炎が生まれている。
何処か違う。古い記憶が真っ白な高温の炎に焼かれ燃え尽きると、眩むような鮮やかな赤に変わり彼女の見事な肢体に絡み踊ると肌の中に収まっていく。
ユーリリカの心は晴れていた。すっかりと霧が昇華した。
彼女の顔に新たな表情が浮かぶ。凛とした悠然たる顔。
目指すは青年と蒲公英がいるヌイ。
―これから始まる希望の地。