ムロマチの名峰、ビワ山から吹き下ろされる風が秋を追い払い冬を呼び込むと、厚着でふくらむ人々の口から、白い息と共に「お寒いですね」のお決まり文句が出始め、最近ではすっかりお馴染みとなりだしていた。
春、夏、秋とそれぞれの季節に盛んに萌え咲いた花や木たちは、すでに色褪め、枯れてしまっている。寂しくなった庭を前にして縁側に腰を下ろすウィリエル・ゼダ・シンプソン――愛称ウィルは、愛でるものがない庭を楽しむ方法にと、垣根越しに聞こえる道行く人の声に耳をすませていた。
時間がゆったりと流れる昼下がりの今は、表の声よりも居間で時を刻んでいる壁掛け時計の音の方が大きく聞こえ、珍しくお決まり文句の一片も、あまり耳に届いてはこない。
どうやら昨晩から吹く木枯らしの所為のようだ。風が空気を切り、乾いた落ち葉を舞わせば、道行く人の体温を容易く奪っていく。
低い囲い越しに見える誰もが、かっちりと口と襟を合わせさせ、身を切るような冷たさから逃れるように足早に家路へと向っていた。
ウィルは手持ち無沙汰を感じ、脇に置かれた盆の上に乗る湯飲み手にした。濃いめに淹れた緑茶から温かな白い湯気があがり、器を通してじんわりと手に温かさが伝わってくる。まずは、ふくよかな香りと深みのある緑を楽しむため、ゆっくりと顔へ湯飲みを近づけた。
暫し賞でると、ゆっくりと器を傾け茶を味わう。程良い熱さが喉を流れ胃に届くとウィルは、ほぅっと息ついた。口内に残る香りと熱は、冷たい空気に混じると靄(もや)となり、空に吸い込まれるよう消えていく。
ウィルはあっけない温かさを惜しむように眺めると、今度は熱を含まない溜息を漏らす。
「今日は静かですね‥‥」
ぽつり、ひとりごちた。その声は儚い。いや、声ばかりではない。湯飲み手にし、ぼんやりと縁側に座るウィルの姿は墨のみで濃淡を描く水墨画のように優美で様になりながらも、どこかもの悲しげであった。
物静かで繊細。女性的な印象を人に与るウィルに粗々しく厳つい者が多い鬼の血を継いでいるとは思えない。
唯一、鬼というものが垣間見えるのは体に流れる時間の感覚だろう。人の数倍も成長がゆったりとし、長寿を誇る鬼の血は、ウィルの実年齢よりもはるかに若い外見を保たせていた。それは嬉しい反面、様々な愁いも感じさせ、やっかい事でもあった。
吐き出しきれなかった茶の靄の一部が胸に残ったように、すっきりとしない気持ちに囚われるウィルは小さな頭を垂れると、日の下でも光沢のでない漆黒の髪が白い頬の脇を滑り落ちていく。左右の長さが異なり、肩口で止まる右側をはるかに越え、二つの結いを施してある左側の髪は肩を過ぎ、白く乾いた土に着きそうになる。
しかし地面に付くことなかった。足もとに横たわる一頭のケルベロスの身体に乗り止まった。
眠っていたケルベロスは髪が触れたことで目敏く起きだすと、何を察したのか小さな声で一つ吠えた。
それは威嚇をする鋭いモノではない。軽く優しい音。どこか甘える声も含まれている。
「お前が足下にいてくれるから、とても暖かいよ」
ウィルの言葉を声音で理解したのかケルベロスは逞しく太い尾を左右に揺すりだす。逞しいのは、尻尾ばかりではない。
主人を見上げる大きい頭と良く筋肉が発達した肩。それらを薄黄色の長い鬣が飾り、しっかりとした身体を覆うのは紫の皮毛。二つの毛色が合わさる姿は華美であり共に頼もしく力強さを感じさせた。
名前は虎飛(とらとび)という。
ずいぶんと勇ましい名前である。このケルベロスを雄と確信したウィルは、強く育つよう付けたのだ。
鋭いが表情の豊かな赤玉の瞳と、鬣の間から見える利発な立耳を持つケロベロスにとても良く似合っていた。
「今日は寒い。ほんに、そこに居てくれると助かる」
ウィルの言葉に虎飛は嬉しそうにほんの少し大きな口を開ける。笑顔のつもりなのだろう。
主人の声音に反応し作られるそのほほえみは、彼の寄せる信頼と愛情の深さが見て取れる。
愛嬌のある笑顔に手を伸ばしウィルは大きな頭に軽く触れた。撫でられる虎飛は、鼻面を上げ湿った鼻の頭をその細い指に寄せると匂いを嗅ぐように押しつけ、上目遣いで甲をひと舐め。温かな舌の感触。くすぐったさにウィル声をたてて笑うと、虎飛は調子づき縁側に前足を掛け、のっそりとあがってくる。
「こら、いけない」
普段のおっとりとしたウィルの口調は変わり、声を荒げた一喝。だが叱られているというのに、構うことなく前足を細い膝の上に乗せると、ぐぃっと体を預けてた。まるで温めてあげるよとでも言いたげな態度だ。
「いや、そんなことしなくともいい。降りなさい」
ズカズカと膝を占領されるのは華奢なウィルにしてみたら堪らない。
生後二十二ヶ月を迎えた虎飛の体は、とっくに成獣となっている。自覚がないらしいが、けっこう重い。
膝に置いた両前足をお次は、こことばかりに藍で染めた浴衣掛けの肩にのっしりと置き、二本の後ろ足で立ち上がり、いっそう体重を掛ける。虎飛の甘えられる喜びを激しく表現された尾が膝に触れると、着物越しだというのに、ひどくこそばゆい。
耳元でグルルと、唸るように鳴る音は虎飛が無意識に鳴らす安堵と甘えの合図。
絹糸のように細く光沢のある薄黄色の鬣にウィルは埋もれ、完全に視界を塞がれてしまう。独特な動物的な匂いに混じり気の休まり感じさせる虎飛の体臭が、鼻先を擽り温かな体温を感じながらも、重さがそれ以上に上回る。
ウィルが埋まってしまい手出し出来ないのを良いことに、軽く甘噛みをする。やんちゃの度合いが進むと出る癖。くっと鈍い痛みを感じる。しかし衣服が裂かれるほど強いものではない。
鋭く尖る牙と牙の間に並ぶ小さな歯を使って器用に噛んでいるのだ。
ウィルはさすがに耐えきれない。
「降りなさい。これ、噛むんじゃない!」
いい加減、腹を立てたウィルは再度、声を荒げた。それでも虎飛は膝を降りる気配など微塵も感じない。彼が怒ってることを承知しながらも、その度合いを見計うように、がぶり、がぶりと細い体に甘噛みを繰り返される。
着物のおかげで肌を破り血を出すまでには至らないが、牙が肉の薄い箇所にある骨に当たれば青や赤の痣が出来るのは免れない。
「いい加減になさい。虎飛!」
ウィルは伸ばした手で、虎飛び耳を乱暴に後へ引いた。痛かったのか、流石に観念した表情を見せ虎飛は大人しく膝から降りだし、ふて腐れたように背中を向け振り返りざま上目遣いで彼をぢっと見つめる。
『反省してますよ一応ね』の仕草だ。不貞不貞しいと思うものの、仕草がなんとも愛らしく叱る気力が半減させられてしまう。
この行動の半分は寂しそうにしていた自分に対する虎飛なりの気遣いだと、ウィルは解っている。ついでに本気で自分も甘えられ一石二鳥だと思っていた事もだが。
飼い主に甘えるペットの心情は道理だと思う。が、しかし何故こんなにもしつこく甘えてくるのかウィルには納得がいかない。
ウィルは頭を一回ぶんと振ると笑って許してしまうのを堪えきり、わざと恐い顔でまだ怒っていることを虎飛びわからせる。躾をきちんと行うのも飼い主の責任だとウィルは考えているからだ。
「こんにちは、ウィルさん。うちのポストにお宅の手紙が入ってましたよ。あら虎飛君、また叱られちゃってるの?」
「こんにちは。おやまぁ‥‥またでしたか、すみませぬ。有難う御座います」
隣の屋敷に住む娘が裏木戸から現れた。間違えられた郵便を右手で掲げ、微笑みながら庭を横断してくる。ややそばかすが見える所為か端麗とは言い難いが、愛嬌のある笑顔が印象的だ。
「はい、確かに渡しましたわ。あら? 日向ぼっこをしながらのお茶ですか?」
「えぇ、お時間があるのでしたら、美味しいと評判のお茶を購入してきました故、如何です?」
「わー、いいのですか? 嬉しいです。頂きますわ」
ようやく虎飛以外のいや、今日初めて人の声をまともに聞いた気がした。 少しの嬉しさも手伝い手紙のお礼も兼ねて、ウィルは彼女をお茶へ誘う。娘は両手を合わせて喜び、茶の支度に取りかかる彼の隣に何気く腰を下ろす。間髪も容れず、ずぃっと、二人を割るように藤色の毛が入り込んできた。
「まぁ、虎飛君は妬きもちやきね」
「済みませなんだ。貴女に限らず、御婦人に対していつもこうでしてね」
娘は笑いながらもわずかに眉をひそめた。ウィルは茶と菓子を娘に勧めると、困ったような笑顔をで虎飛の頭を一つ撫でる。彼女も撫でようと手を出すが、虎飛は迷惑と言わんばかりの表情でそっぽを向く。
「まぁ、酷い」
「これ! 虎飛! あぁ、すみませなんだ。身体は大きく育ったのですが、心はこの通りまだ子供のようでしてね。ほんに困ってしまいます」
ウィルは慌てて虎飛を窘めた。しかし赤い瞳は反論でもあるように上目遣いで二人を見ると意義を唱えるように小さく唸っている。
「ほんと、虎飛くんはウィルさん大好きっこすぎですね」
「あはは、確かに‥‥」
娘は眉をハの字に曲げ軽く息をつくと、冗談めかしてあてこすった。ウィルも否定出来ずない。
言われている意味は解らないでも発音で悪口と聞き取った虎飛は、あからさまに嫌悪の表情を目に浮かべ娘を睨みつけている
ばちばち。
「そ、そうだ、手紙を読んでみましょう。どなたから来たのでしょうかね」
両者の間から火花が散った。危険な状況をすぐさま感じ取ったウィルは話を変えるため、そそくさと娘の持ってきた手紙を手にし、場を切り抜けようと試みた。手に取った封書には青い蝋で封印が施してあり、紋章が押されている。
「おや? これは」
手紙の差出人はイヌオウからだった。ひと月ほど前にペット達の一斉検診があり、その診断のようだ。
ウィルは丁寧に封を開け、中の薄青の便せんを開いた。内容は簡潔。そして無骨な文字が紙に書き付けられている。
『拝啓ウィル・シンプソン殿
貴殿のケルベロス、虎飛の診断の結果を報告させて頂きます。
健康に問題なし。良好。
生後二十二ヶ月とになり、ようやくの性別の判定が可能となったので書き添えておく。結果 雌だと思われる。
以上』
「え? 雌?」
声が一瞬、うわずった。ウィルは手紙に書かれた文字と自分の目を疑った。
虎飛が雌?
イヌオウはそう書かいている。幾度、読み返しても、黒いインクで書かれた文字は変わらない。
手紙から顔を上げ虎飛を見た。赤い瞳が『何?どうしたの?』とばかりに興味深げに見返してくる。
「あはは、ウィルさんったら虎飛君は女の子だったなんて、思わなかったのね。私もそうだったけれど」
その言葉に虎飛は低い唸り声を上げた。抗議しているのだ。鼻に小さく皺も刻み、怒りの表情を見せている。本格的に気分を害したようである。
虎飛の反応に、娘はしてやったりとばかりに笑っている。しかし彼女の言葉はもっともだ。飼い主であるウィルも雄だと二十二ヶ月も信じて過ごしてきたのだから。
「さぁ、これ以上、虎飛く‥‥んじゃなかった、虎飛ちゃんのご機嫌をこれ以上、損ねないうちに退散します。ウィルさん、お茶をご馳走様でした。また誘って下さいね」
娘はぺこりと一礼すると、足早に裏口から出て行った。ウィルは衝撃が強すぎたせいか、挨拶もそこそこに出て行く彼女を見送った。
また庭といわず、ウィルの回りは音が消え寂しくなった。華やかな娘が帰ってしまったら、尚更そう感じる。
しみじみと虎飛の長い鼻先を撫でながら、ウィルは確認するような口ぶりでつぶやく。
「そうだったのですか、女の子だったのですね。お前」
何を今更と言いたげに虎飛はふんっと鼻を鳴らし、大きく尻尾を振り抗議を試みている。だが、尻尾の感情とは裏腹にその口元に穏やかな笑みが浮かんでしまっていた。
ウィルは素直な感情が表れる虎飛の口元を撫でる。
いっそう増した笑顔に、あぁ、だからか‥‥虎飛の数々ある奇怪な行動をウィルは今、少しばかり納得できた。
自分を好きだからこそ、甘え、そして守りたいのだと。
「いつまでも仲良くしましょう。虎飛」
ウィルは虎飛の額に自分の額を付けた。襟を巻く長い薄黄色の毛に触れると、厳つい表情の中に、ウィルにしか気付かないだろう、穏和さが浮かぶ瞳で彼を見返し、心地よさげに撫でさせている。
彼、否―彼女である虎飛は、優雅に尾を振り主人に向かって微笑みながら何かを言っているようだ。