今日の空は、月の姿も星の瞬きもない。
新しい暦にかわり、空の支配者達は浴びる陽光を地上へ降ろすことのできない日。水性絵の具で塗ったように透明感のある黒色が、屋根から庭を見下ろすディルオンスを包んでいる。
単色のみのうら寂しい夜空に代わり、大小様々な窓から漏れる明かりが、地とそこに植えられたヨクの育てる草花達を綺麗に照らしだす。
赤や白、オレンジ色をした愛らしい花が光に映え、ディルオンスの金色の瞳を楽しませている。が、しかし花達としては宵っ張りの城主のおかげで眠りを妨げられ、はなはだ迷惑そうに風に揺れている。
煌々とした光は地に注ぐばかりで、ディルオンスのところまで届かない。届いたとしても黒いシャツにデニム、そして背中にある漆黒の大きな翼が上手い具合に彼を夜の中へ隠してしまい、彼の存在を消してしまっている。
思い出したように吹く一陣の秋風が悪戯にシャツの裾をはためかす。それがかろうじて彼がそこに居る証となっていた。
どれくらい眺めていたのだろうか?
少しばかり堪え性のないディルオンスにしては、珍しく長いあいだ同じ姿勢のままで過ごしていた。そのせいで身体のあちこちは疲労し張っている。
痛みに似た怠さに耐えかね彼はゆっくりと腕を上げて、ぐっと背中を反らす。とたんに関係のない箇所までギシギシと軋んだ。これしきの事で疲労し、悲鳴を上げる身体に苦笑いが浮かぶ。元々、丈夫な方ではないのだから、仕方のない話であるが。
伸ばした腕をゆっくりと戻すと、今度は気怠そうに首を左右に傾けぐるりと数回まわす。少し身体を動かした事で、張りがこころなしか軽減されたとディルオンスは感じ、長い手足をもてあまし気味に屋根に投げだすと、視線を庭から空へと動かした。
昼間の埃っぽい空気がろ過され、黒とも紺とも言い難い夜は遠くまで見る事ができる。が、どこまで見てもこの単色しか続いていないのは、なんだか虚しい。
シャツに収まっている胸が、なぜだかぎゅっと締め付けられた。
ふいに双眼から一筋ずつ流れが起き、頬を濡らし始める。突然のことにディルオンスは驚き、慌てて掌で拭うが溢れる涙はいくら拭いても追いつかない。次から次に輪郭を伝い、細い顎の先でまとまると、ひとつの雫となって夜の中に落ちる。
今はけして悲しい感情ではないはず。しかしこの夜に包まれ長くそこにいると、漠然とした不安と焦燥が胸中が募っていく。
何が怖いのか? 聞かれたとしても、眼から流れ続ける涙の理由と同じように解らない。しかし不安で仕方がないのだ。つかみどころのない恐れの感情と燻る憔悴で、どうしても眠れずにいた。
拭っても袖に染みを作るばかりで一向に止まることのない涙にディルオンスは諦めて、ひとつ鼻を啜り上げもう、頬を擦ることはしない。
流れるままに任せて視界が霞む金色の双眼でじっと夜空のずっと遠くを眺める。ディルオンスはこのまま泣き疲れて眠くなるのを待つ事にしたのだった。
ゆらりと庭の隅、塀の代わりに植えた常緑樹の幹の間にある闇の中になにかが浮んだ。ディルオンスは涙で見えにくい目を凝らし、辺りを窺う。
一定のリズムでゆらゆらと揺れるランタンの心許ない灯のあとに浮かびあがり、白い影が屋根の下まで歩いてくる
「ディル、どこ?」
仄かな明かりと共にやや高めで優しげな声が風に乗り、ディルオンスに届く。その声の主は同居するヨク。
ディルオンスは慌てふためき、見つからないよう咄嗟に身を隠そうとしたが、風が翼をかすめ空を切る音を立ててしまった。もちろん猫のように耳敏いヨクは聞き漏らしはしない。
ランタンを掲げ、迷いもなくディルオンスのいる方向へ向ける。
「そんなところにいたんだ。降りてこない?」
大人びた口ぶりだが、照らされた容姿はまだ少年。長年の煙でくすんだガラス越しの灯にヨクの乳白色の髪は金糸のように輝く。滑らかな卵形の輪郭の中に収まる細い鼻梁や形のよい唇は、飴細工のように繊細な陰影をみせていた。
「今は厭だよ。もう少ししたら降りるから、ヨックンはもう寝ていなよ」
「ディルが、降りてくるまではここにいる」
「‥‥」
涙を流した顔を見られるのは厭だ。
ディルオンスの心に羞恥心が過ぎ、ここまで明かりが届かないと解っていても、顔を背けて目元を服の袖でゴシゴシと強く擦る。
できれば、早くどこかに行って欲しかった。こんな泣き顔の理由を言えるほどディルオンスは饒舌ではない。押し黙り、ヨクが諦めて去って行くのを待った。
だが、一向にそこから動く気配がない。こうと決めたらやり通すのがヨクだ。普段のおっとりとした物静かな性格からは想像出来ないほど、頑固な面もある。
このまま押し問答を続けては、サテンの薄い寝間着のみのヨクに風邪をひかせかねない。ディルオンスは諦めたような溜め息をひとつ。
「わかったよ。なら城の中で逢おう。テラスにおいで」
「うん」
ヨクは嬉しげにランタンを大きく揺らし、城の扉へと向かった。
ディルオンスが普段、出入り口として使う白いテラス。大きな黒い羽で飛ぶことが出来る彼は、ヨクよりも早くそこにいた。
真っ白な手摺りに腰掛け、困ったように眉を顰め、考えあぐねていた。
煌々とした部屋の明かりはランタンよりも遠慮がなく、あからさまにヨクに泣いた顔を見られてしまう。明かりを消す事も考えたが、それはおかしな話。
どうしたモノかと頭を捻るが、良い考えは浮かんで来ない。眼のふちが赤く腫れ熱を持ち、これはどうしたって隠しようがなかった。湿った袖で強く押さえるが、視界がぼやけただけで何の策にもならず、かえって酷くさせるばかりだ。
困り果て無造作に黒い髪を掻き上げた。顔が露わになると、部屋の明かりは涙で疲労した眼にチクチクと刺さるような痛みとなって飛び込む。そう、痛みと共に髪を上げれば赤くはれた目の縁がはっきりと目立つ。
ディルオンスは慌てて前髪を下に撫でつけるその時、きぃっと小さく戸の軋む音と共にランタンの替わりに大きめのトレイを注意深く手に持ったヨクが入ってきた。
必要以上に前髪を押さえつけたあと、慌てて背を向け外を眺めているフリをした。
「お茶を淹れてきたよ。紅茶、飲むでしょ?」
「うん、ありがとう」
振り返らずにヨクの気配が感じる箇所へ手を伸ばし、カップを探った。そんなディルオンスの手の平に熱く湿ったモノが素早く置かれる。なんだろうと? と不思議に思い見てみれば、それはおしぼりだった。
「んもう、駄目だよ。手をきれいにしてから。ほら、顔もすすけてる。屋根の上で寝転がった?」
「‥‥うん」
そんことはしていない。そもそもディルオンスの顔を見ていないではないか。
ヨクの気遣いである。
彼は、泣いるのは解っていたようだ。しかし今は何も聞かず、さりげなくおしぼりを手渡してくる。そんな優しさにディルオンスはなんともいえない喜びを覚えながら、冷めないうちにぎゅっと目頭を押さえた。
じんわり心地よい温かさが目頭からこめかみに伝わる。
「ねぇ、眠れないのなら、少し僕と話をしようか? じつは目が冴えて困ってたんだ」
「‥‥うん」
これも方便だ。
ディルオンスは俯き加減で、使い終わったおしぼりを返しながらヨクを盗み見て、気付いた。薄茶色の瞳は陶磁器のように白い頬に反映するかのように赤くなり、そのうえ、視点がどこか定かではない。眠そうである。
だが、そんな素振りを見せずにティーポットから、お茶を注ぎディルオンスに笑顔で差し出す。
「なにを話そうか?」
「ん? そうだね、ヨックンの事を話してよ。聞きたいな」
やわらかな湯気の立つカップを受け取り、そっと口付ける。ちょっとばかり熱いが口の中に良い芳香が広がり、そのまま胸まですんなりと落ちっていった。
ヨクは小さく咳払いをするとリクエストに応え彼と出会う前に見た城や街、聞いた色々な国の音楽を話しだした。
その心地よく耳に入っていく温かな声音に、先ほどディルオンスのシャツを翻した悪戯好きの秋風が、空を切る音で茶々をいれる。
話は時間の経過を忘れてしまうほど尽きず、星すらなかった夜は東の空から白々と明け始め部屋の中は照明の他に陽光が差しだした。
ディルオンスの眼はもう元の金色に戻り、気付けば会話のあいだに、とらえどころのない憔悴と不安の欠片は胸の中から失せていた。代わりに安堵とゆったりとした心地に満たされ始めている。
「ねぇ」
「何?」
「隣にディルが居るなら、ちゃんと生きていけると思うんだ。君もそうならいいんだけど」
ディルオンスはヨクの言葉に驚いた。今、自分もそう考えていたからだ。
驚き戸惑う金色の瞳と、あたたかな感情が表れた薄茶色の瞳がゆるやかに絡みあうと、意を決したようにそろり、ヨクの小さな顔がディルオンスに近付く。
緩く閉じられた瞼を長い睫が輪郭をかすませ、陶磁器のような白い頬に淡い影を落としている。それは可憐にほころぶ野花のよう。
目の当たりにしたディルオンスの心臓は早鐘のように打ち、唐突な出来事に顔が強ばるが、ヨクの事が嫌だという気持ちはまったく感じない。むしろ嬉しい。互いの真意が僅かな空間を行き交うなか、ディルオンスはヨクを好きだと心の中が確信した。白い頬、乳白色の髪やふっくらとした耳たぶを飾るピアスを弄び、触れたいと思うのは自然なこと。
納得すると、とても素直な気持ちでヨクを白い寝間着に手をかけ、細い肩を抱きしめた。
唇が合わさる寸前、ディルオンスも目を閉じる。瞼の裏に焼き付いているのは合わさる直前の幸せそうに微笑むヨクの顔。
静かに重なる唇を通して、より深く直に彼の体温、甘い香りそしてさりげない優しさを感じた。
‥‥君の側だったら、ちゃんと生きていけそうだ。