――夜――
まだ月が天にある。白銀の艶美な光が障子越しに差し込む。
ハジメは緩やかに目を醒ました。部屋の中はまだうす暗い。
静寂。
寝付こうと寝返りを打つ。が、そのたびに鳴る衣擦れの音が気になりだしハジメの目はどうにも冴えだした。
どうやら寝る間を逃してしまったようだ。
仕方なしに月夜の散歩へと考え、手早く着替え障子に手を掛けた。
――暗闇――
物音一つ聞こえず、辺りの家は寝静まっている。
この月明かりだけでは心許ないが、提灯を翳すのは無粋。
春だというのに凍てつく夜。まだ桜のつぼみは堅く閉ざされている。
人気のない夜は吐く息が白く染まり、なお寒さを増させた。
から‥‥からん‥‥
響くのは自分が織りなす下駄の音。
暗い夜道に響き渡った。
道端に影が一つ。櫻の根元にうずくまる坐る影。ぼんやりと浮かんだ、薄桃色の着物。
こんな夜の遅くに娘が一人小さく背中を丸めなにかをしている。
近づいてみれば娘と言うにはあまりに華やかだ。抜いた襟から覗く白く長い首筋は何とも艶があった。
「鼻緒が切れたのか? どれ‥‥拙者の肩へお掴まりなさい」
「‥‥いえ‥‥あの、大丈夫です」
戸惑う娘の前に屈み肩を貸す。断りも無視して、ハジメは手にしている下駄をそっと受け取り懐の手拭いを裂いた。
冷えた肩に触れる娘の手の温もりが行き交う。
数分。
鼻緒を直し娘の足へ履かせる。
「これで‥‥どうかな? 痛くはないかい?」
「あ、はい。大丈夫でございます‥‥」
「もし宜しければ、拙者が家までお送りしよう」
「いえ‥‥そんな‥‥見ず知らずの方にとんでもない」
「おっと、失礼。女性に名乗りを上げずに不躾なことをした。拙者はハジメ・サイトーと申す。別に怪しい者ではござらぬよ」
「私は椿と申します」
「ほぅ椿殿でござるか。ここは桜の下。てっきり桜の精かと思うたが、冬に咲く良き花の名だな。こんな暗い夜道を女子一人、歩かせるわけには行かぬ。 護衛と剣の心得はあるのでな、安心いたせよ」
「では‥‥お願いします」
椿はにこやかにハジメの横を歩き出した。