強い日差しと粘る暑さが、川の畔に満ちている。
 数日続いた長雨の真ん中に、ぽつりとのぞいた秋の晴れは夏の負け惜しみのように暑い。酷い湿度と気温が空気を重く沈ませていた。
 時折、川面から吹く風が刈られて間もない草の匂いを運び、土手原に座り釣りを勤しむサイトーの鼻を擽った。
 白地の単衣に合わせた海老茶の袴姿。ムロマチ人が好んで着用する単衣と袴と呼ばれる服装だ。
 この暑いさでも襟は喉元まで閉じられ、手頃な石に腰掛けている袴には余分な筋のがない。肌の露出を最小限に避け、顔も顎から頬を黒い麻布で覆い隠し僅かに出ているのは額と目のみ。
 その隙のない着こなしは武家の女房を思わせた。
 ようやく見える垂らす糸を見る黒い瞳は表情に乏しく、日に焼けていない額の左半分に奇っ怪な凡字が痣が描き込まれている。
 異様な風貌の持ち主。
 だが変わっているのは容姿だけではない。性格も寡黙と言えば聞こえが良いが、偏屈な男。
 人との交わりを避け、手隙の時間や非番は一人で過ごす事が多い。
 今日の非番も例の如く一人、釣りに勤しみ、流れに思いのまま遊ばれている浮きをぼんやり見ていた。
「あ! サイトーさんだ! サイトーさぁん」
「‥‥」
「なぁにやっているんですかぁぁ〜〜?」
 不意に脳天気なオキタの声が土手の上から聞こえた。彼に目敏く見つけられ、浮きを見ながらがら不快を露わにする。それも気付かないのか気付いていても無視するオキタの声が風と草の囁きを割って入ってきた。
 どうみても釣りだ。と、言わんばかりに竿を振り上げ再度、浮きを水の中に落とす。
「ねぇ〜〜サイトーさぁん」
「‥‥」
 両手に持つ風呂敷包みを嬉しそうに大きく振り回し、土手を駆け下り近付いてくる。サイトーは、ようやくオキタを一瞥し、鼻を鳴らすが、そんな横暴な態度でも彼は気に留める様子はない。
 総髪、大たぶさに結いあげた薄茶色の髪を犬の尾のように大きく揺らし、愛嬌たっぷりの垂れ目を輝かせている。
 その身体はひどく細い。まるで衣紋掛けに掛けられた着物が走っているようだ。
 それでも人一倍食べるうえ、甘い物には目がない。甘い物嫌いで酒飲みの無口なサイトーとは、真逆の性質だ。
 それでも何が気に入っているのかオキタはサイトーと居たがりじゃれつく仔犬のよう寄ってくる。
 サイトーにとって、できるなら近づきたくはない相手、しかしオキタの方はお構いなしだ。
 まったくをもって、いけ好かない。一緒にいれば、自分の調子が乱されっぱなしになる。
 もう一度、オキタを見やると、彼の辿る歩行先に、さっきまで本当の童達が足掛けを作って遊んでいた名残があるのに気付いた。
「そこいらに童が草の足とりを作っておった‥‥」
「えぇ?? うわ〜〜ぁぁ」
 一息分、遅かった。掛けられた声遅く、オキタも土手を下っている反動のついた足を止めようにも止められない。
 見事、草の輪に捕らわれ、前へつんのめった。
勢いをつけてオキタはサイトー目指し転がり落ちてくる。
 振り返れば自分の背中にあるのは川。咄嗟に右に体を動かす。
これでオキタだけ行き先は決まった。

どっぽ〜〜〜ん

 飛沫も大きく豪快に飛び散る。ついでに小魚の数匹、一緒に撥ね上げた。
 あららと苦笑いを覆面に染み込ませるが、瞬時に無表情に変わり助けの手も差し出さず、のほほんと眺めた。
 オキタはもがきながら、手を貸さないサイトーに悪態を付く。
 しかし黙って軽く聞き流すサイトー。知っているのだ川幅も狭く、浅い。こんなところで溺れる者など居ない。
 オキタの身を挺した冗談。
 付き合っていられないとばかりに、改めて釣り糸を投げ込んだ。
「そんなところで、泳がれては魚が逃げる。どいて頂きたい」
「ひどいなぁ」
 頭からずぶ濡れのまま、腰まで川に浸かり立るオキタに言い放った。 その顔には、まだ笑みが張り付いている。
 サイトーはオキタの怒った顔など見たことがない。コンドーが営んでいた道場時代からだ。
 隊では四天王とも隊屈指の三羽烏の一人とも言われるオキタ。
 だが彼は、有り難い称号を逆に迷惑そうに、気さくな口調で平隊士の大部屋に入り浸り、くだらない冗談口ばかりを叩いている。
 それ関して、よくヒジカタにお小言を貰っているが、一向に直す気配など無いなかった。
 根っからの人好きで甘ったれなのだ。
「あ〜、やばい! ヒジカタさんに言われて借りてきた本がぁぁ」
 転げた拍子に風呂敷包みが解かれ、書物達が水に乗ってプカプカ流れていくのを慌てて水をかき分け拾い集めていた。
「全部あったけど、びしょびしょだ」
「早く乾かせば墨は滲まない」
「あはっそうか〜、さすがサイトーさん。なら手伝って下さいよ。 避けた責任があるんだから」
 オキタは訳の分からない言いがかりをつけ、サイトーに促す。何故、自分がと思いつつも、まだ川に浸っているオキタが邪魔で釣りに勤しめず、仕方なしに釣り竿を置き立ち上がった。
「あんたは柴を拾っていろ。俺は近くの家から火を借りてくる」
 土手を上がったところにある農家へ火を借りに行く。出てきた年配の老女は、サイトーの姿に驚きながらも少しの炭と火種を火桶に入れて、渡してくれた。
 一つ礼を述べ、家を後にし土手に戻ると、オキタは言い付け通り薪を一抱え分ほど地面に置き、濡れた着物を脱ぎ捨て下帯一枚で坐っている。
「なんだその格好は。武士として恥ずかしくないのか?」
「だって、濡れた着物を着ているのは気持ち悪いんですよ」
 突飛で酷い格好をしたオキタを諫める。暑い盛りですら片袖を抜くこともないサイトーにとって信じられない。まして、どんな時でも命を狙われる身。丸腰というのは、武士としてあるまじき行為だ。
 呆れ顔をしても、その表情は覆面の下に隠れオキタへは届かない。
「脱いだ着物は絞って枝に吊して乾かし、その間はこれを羽織っておけ」
 サイトーは持っていた隊服の羽織をオキタに投げた。まだ夏の隊服であるそれは袖無しの立ち襟、黒羽織。やや長い裾で見苦しい姿でも隠せる。
 薪を巧い具合に積み火をおこす。数分程で赤々と燃えだし、火の粉が飛ばない場所へ本を広げて立てる。
 オキタは言われたとおりに着物を絞り木の枝に干すと、渡された隊服を掛け、枯木に腰掛け火に当たった。
「へぇ、サイトーさんって手際良いよね。芋でも貰ってくれば、もっと気が利いたのに」
「‥‥」
 感心つつも一言多い。サイトーは、非難に近い一瞥を向けたが、オキタの方はまったく、その視線を気に留めず、ペラペラと話し出す。
「ねぇ、私より年上? 下だと聞いたけど?」
「二十歳だ」
 ふ〜と一吹き、風を送る。オキタは手伝う素振りなどない。
 単語のみしか発しない自分に対して、何倍も言葉を連ねるオキタをサイトーは煩そうに横目で見、再度火に空気を送った。
「うわ〜二つも下? 私は二十ニですよ。落ち着いて貫禄あるよね」
「あんたが落ち着きがなさ過ぎる。童とばかり遊んでおるからだ」
「年上にそういう事を言ってはいけないんだよ。目上は敬わなくっちゃ」
「‥‥」
 笑いながら微妙な本音が出る。
 サイトーは、オキタを目上だとは一切思っていない。確かに同じ幹部ということで、役職の階級も同じだ。
 剣の腕としても互いに互角。
 エドでコンドーが道場を開いていた頃から顔を知っている二人だが、込み入った話はしたことがなかった。
「サイトーさんって滅多に笑わないし、話さないよね」
「武士はそうでなくては、いけないと躾られた」
「ふぅん、私も武士の子ですが、そういう躾がなかったなぁ、サイトーさん家って厳しかったんだね」
「あぁ」
「けど嬉しいなぁ‥‥私の回りは、年上ばかりだから弟ができたカンジする」
「あ?」
「サイトーさんではなくて、ハジメちゃんっと呼んでいい? 僕のことソウシ兄さんと呼んでよ」
「ちゃん付けはするな」
「なんで? 良いと思うけど」
 オキタはごろりと横になると胸まで羽織を引き上げた。
 うんざりした顔でサイトーは、火が絶えないように薪をくべ、本に煙と火の粉が掛からないように、枝で小さな赤い飛来物を叩く。
 これではどっちが兄か解らない。やはりオキタは末っ子のままだ。
「着物から、良い匂いがする」
「香を焚いておる。毎日のように人を斬れば血の匂いが沁みてしまうのでな」
「お洒落さんだね。ハジメちゃん」
「ちゃんを付けるな」
 オキタは羽織を顔まで引き上げ鼻をヒクヒク動かし、匂いをかぎ続けている。
 それに飽きると反転し、じっとサイトーを楽しげに視線を送る。サイトーはつい問う。
「何故、オキタさんは俺と一緒に居たがる?」
「‥‥ふぇ? どうしてです?」
「俺といても楽しくないと思うが、それなのに近づいてくる貴公が不思議に思えたんでな」
 サイトーの言葉にオキタは首を傾げた。変な事を聞いたなと、一瞬固まったサイトーは決まり悪い表情を眠たげな瞳に映す。
 オキタは、しごく真面目に考え込むと、数秒も経たないうちに、にぱっと屈託のない笑みに変わり、
「ここまで冗談が通じない人って、いないから良いんですよ。特に理由なんてありませんよ。けれど私は男の人が好きとかはないですからね」
 あっけらかんと言い放つ。冗談を交えた口調に、やはり聞くべきでも、関わるべきでないとサイトーは思った。
 オキタのどこまで本心かは分からない中身をもう知ろうとは思わなくなっていた。
 サイトーを気遣う素振りなど微塵もなく、火に当たり心地よさから、気付いた時には眠りに落ちていた。
 あまりに無邪気な寝顔に殺気を向けても起きなそうなぐらいだ。
 人を虚仮にして楽しむオキタをいっそ、殺してみようかとサイトーの頭に黒い考えが掠める。
 だがオキタとて剣客の端くれ、ただでは斬れないだろう。

 夕刻。
「おい、そろそろ起きろ。一番隊は夜番ではないのか?」
「‥‥ん?」
「早く行かぬと士道不覚悟で切腹だ」
「げげっやばい〜」
 勢いよく跳ね起きると枝に干された着物をひっ掴む。だいぶ乾き、うっすらと湿気っているぐらいだ。
 腰紐と帯を同時に身体に巻き付けている。着方もあったものではない。
 本は乾いてはいるが、どれも波打ち頁が重ならない無惨な姿をしている。
「おい、本を忘れておるぞ」
「あ! ハジメちゃんからヒジカタさんに渡しておいてよ。きっとあなたからだったら怒らないだろうし」
 本を手に取り振るサイトーを無視し、オキタはずぼらに着付けた姿で土手を駆け上がり道に出ていく。
「なに? オキタさんの仕事だろう!これは‥‥こんなものを持っていったらこっちが詰め腹斬らされる。迷惑だ」
 逃げ足早いオキタはもう豆粒ほどにまでなっていた。
 サイトーは手にしたボロボロ本を見て、やはり斬っておくべきだったと溜め息をつく。
「なんて言おうか‥‥これ」

黒猫時雨